ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

ナザレのイエスはあの預言者

 

 ペテロはユダヤ人たちに言いました。

 「あなたがたは、この方(ナザレのイエス)を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。そのうえ、この聖い、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中から甦らせました。私たちはそのことの証人です。」(使徒3:13-15)

 

 ピラトは、ローマ帝国の第五代ユダヤ属州総督です。ピラトにはイエスを釈放する権威があり、また十字架につける権威がありました。ピラトは、イエスを処刑する権限を持っていました。

 

 しかし、イエスは言われました。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者(ユダヤ人)に、もっと大きい罪があるのです。」

 

 イエスを十字架につけることが父のご計画でした。イエスを処刑し、ユダヤ人の罪を贖うためです。神の初子であるユダヤ人の贖われることは、人類が贖われることを意味します。

 

 ローマ帝国のピラトはイエスを釈放しようと努力しました。しかし、イエスの同胞のユダヤ人たちはそれを激しく拒みました。

 

 ピラトは祭司長たちと指導者たちと民衆とを呼び集め、言いました。

 「あなたがたは、この人(イエス)を、民衆を惑わす者として、私のところに連れて来たけれども、私があなたがたの前で取り調べたところ、あなたがたが訴えているような罪は別に見つかりません。ヘロデ王とても同じです。彼は私たちにこの人を送り返しました。見なさい。この人は、死罪に当たることは、何一つしていません。だから私は、懲らしめたうえで、釈放します。」

 ローマ帝国は、イエスを死罪とは考えなかったのです。彼らには、イスラエルの神がわかりません。神のご計画を知りません。彼らは、神のことを思うのではなくて、人(イエス)のことを思っていたのです。

 

 ユダヤ人たちは、声をそろえて叫びました。「この人を除け。バラバを釈放しろ。」バラバは、人殺しの罪で処刑される死刑囚でした。

 

 ユダヤ人たちはイエスを十字架につけるよう大声で要求し、ついにその声が勝ちます。ピラトは、彼らの要求どおりにすることを宣告しました。つまり、人殺しのバラバをユダヤ人たちの願いどおりに釈放し、イエスを彼らに引き渡して好きなようにさせました。

 

 総督は、過ぎ越しの祭りには、群衆のために、いつも望みの囚人をひとりだけ赦免してやっていました。ユダヤ人たちは、バラバという名の知れた囚人の釈放を要求し、ナザレのイエスを十字架につけることを要求したのです。

 

 総督の「あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放してほしいのか。」との問いに、彼らは、「バラバだ。」と叫びました。祭司長、長老たちは、バラバのほうを願うよう、そして、イエスを死刑にするよう、群衆を説きつけていたからでした。

 

 ピラトは彼らに言いました。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」ユダヤ人たちは一斉に言いました。「十字架だ。十字架につけろ。」

 

 ユダヤ人たちは、ピラトが釈放すると決めたのに、聖い正しいイエスを拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、いのちの君(救世主キリスト)を殺したのでした。しかし、神はこのイエスを死者の中から甦らせ、永遠に生きるキリストとされたのです。

 

 ペテロは、ユダヤ人たちに言いました。

 「兄弟たち。私は知っています。あなたがたは、自分たちの指導者たちと同様に、無知のためにあのような行ないをしたのです。しかし、神は、すべての預言者たちの口を通して、キリストの受難をあらかじめ語っておられたことを、このように実現されました。

 そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシアと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。

 このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天に留まっていなければなりません。

 モーセはこう言いました。

 『神である主は、あなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。この方があなたがたに語ることはみな聞きなさい。

 その預言者に聞き従わない者はだれでも、民の中から滅ぼし絶やされる。』」(使徒3:17-23)

 

 イエスの身に起こったことはすべて、預言者たちに語られていたとおりでした。預言者に語られたことが実現したのです。ユダヤ人は、罪を拭い去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返らなければなりません。

 

 アダムの罪が全人類に及んだように、イエスを十字架につけた先祖の罪をすべてのユダヤ人は負っているのです。アダムの罪が人類の罪であるように、ユダヤ人の先祖たちの罪は、ユダヤ民族の罪となっています。イエスを十字架につけたユダヤ人たちが誓ったからです。

 

 ピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の前で手を洗って言った。

 「この人(ナザレのイエス)の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」

 すると、民衆はみな答えて言った。

 「その人(ナザレのイエス)の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」(マタイ27:24-25)

 

 ナザレのイエスが、神が遣わされた神の御子キリストであることを知り、イエスを拒んだ罪を悔い改めて、「イエスは主。」と告白するならば、先祖の罪の縄目から解放され、ユダヤ人は自由になるのです。

 

 ユダヤ人たちが神に立ち返ると、主の御前から回復の時が来ます。ユダヤ人の回復は、人類の回復の時です。神の子羊イエスの贖いの血を受けたユダヤ人は、生ける神の民として、永遠に生きます。人類の初子であるユダヤ人が永遠に生きる者となれば、人類もまた贖われ、生きる者となるのです。

 

 モーセはユダヤ人たちに言いました。「神である主は、あなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。この方があなたがたに語ることはみな聞きなさい。その預言者に聞き従わない者はだれでも、民の中から滅ぼし絶やされる。」

 

 イエス・キリストこそが、モーセが語っていたその預言者なのです。救いは、ナザレのイエスにあります。イエスに聞き従わない者は、だれでも、神の民から滅ぼし絶やされるのです。

 

 神を礼拝していても、イエス・キリストを認めないならば、天の聖所に入ってはいません。イエス・キリストを我らの救い主として迎える時、ユダヤ人は、天の礼拝者となるのです。

 

 ユダヤ人が悔い改めて、ナザレのイエスを「神の御子キリスト」として受けると、回復の時が来ます。そして、主は、永遠に生きるメシア(復活のイエス・キリスト)を地に遣わされるのです。