ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

主の御手が上げられても彼らは認めません

 

 「主よ。まことにあなたのさばきの道で、私たちはあなたを待ち望み、私たちの魂は、あなたの御名、あなたの呼び名を慕います。まことに、私の内なる霊はあなたを切に求めます。

 あなたのさばきが地に行なわれるとき、世界の住民は義を学んだからです。悪者は憐れみを示されても、義を学びません。正直の地で不正をし、主のご威光を見ようともしません。

 主よ。あなたの御手が上げられても、彼らは認めません。」イザヤ書26:8-11)

 

 あの日、テレビを観ていたら、突然、霊が開かれたような、光が差すような、明るい霊的に軽くなったような感覚を持ちました。

 

 しばらくして、テレビの画面が切り替わり、奈良の銃撃事件の模様が映し出されました。何が起こっているのか、ただ画面を見つめるだけで頭は働きません。

 

 もう事件が起こった後のことです。何度も何度もその時の様子を各局、色んな角度から放映しています。その様子を見ながら、とても不思議な感覚を持ちました。

 

 一発目の乾いた爆発音の後、二発目が打たれるまで皆が静止しているように見えます。誰も動きません。まるで、静止画を見ているようでした。誰も事態を把握せず、何が起こったのかと思考が止まっているかのようでした。

 

 異様な音が鳴れば、それがピストルとかで無くても、SPたちがまず要人の安全のために即座に動くものだと思っていましたが、時間が止まっているかのように皆がそのままの状態であり、キョロキョロする人もいません。

 

 安倍氏がゆっくりと後ろを振り向く姿もありました。おそらく、山上容疑者を目に映したのでしょう。しかし、とっさにしゃがむということもありませんでした。本当に、不思議な不思議な光景でした。すべてのものがスローモーション撮影のようでした。

 

 しかし、その光景の中に、主の御手を感じたのです。人間の思いとは異なる、神の意思のようなものです。神の御手がすべてのものをとらえ、すべてのものは神の御手によって牛耳られているかのようでした。

 

 創世記19章にロトとソドムの人々のことが書かれています。ロトの家に入った神の御使いに汚し事を企むソドムの人々は、彼らを自分たちに渡すように、ロトに言います。御使いたちは、悪に満ちたソドムを滅ぼすために来たのです。ロトは戸口にいるソドムの人々のところに出て、後ろの戸をしめた。

 

 ロトは言った。「私にはまだ男を知らないふたりの娘があります。娘たちをみなの前に連れて来ますから、あなたがたの好きなようにしてください。ただ、あの人たちには何もしないでください。あの人たちは私の屋根の下に身を寄せたのですから。」彼らはロトのからだを激しく押し付け、戸を破ろうと近づいて来た。すると、神の御使いたちが手を差し伸べて、ロトを自分たちのいる家の中に連れ込んで、戸を閉めた。

 

 家の戸口にいたソドムの者たちは、小さい者も大きい者もみな、目つぶしをくらったので、彼らは戸口を見つけるのに疲れ果てた。

 

 戸口にいた者たちは、戸口を見つけることができなくされたのです。肉眼で見るならば、戸口の前にいるのですから、わけなく戸に手をかけることができたはずです。しかし、見てはいるけれども見えなくされたのでした。目の前にある戸を見つけることができないのです。これが神のわざです。

 

 また、列王記Ⅱ 6:18-20にエリシャのことが書かれています。

 「アラムが預言者エリシャをつかまえようと、エリシャに向かって下って来たとき、彼は主に祈って言った。『どうぞ、この民を打って、盲目にしてください。』そこで主はエリシャのことばのとおり、彼らを打って、盲目にされた。

 エリシャは彼らに言った。『こちらの道でもない。あちらの道でもない。私について来なさい。あなたがたの捜している人のところへ連れて行ってやろう。』こうして、彼らをサマリアへ連れて行った。

 彼らがサマリアに着くと、エリシャは主に祈り、主が彼らの目を開かれた。エリシャの助言により、王は彼らに飲み食いさせて盛大にもてなした。それからアラムは戻って行き、アラムの略奪隊は、二度とイスラエルの地に侵入して来なかった。」とあります。

 

 私は、これらの主の御手の働きを思い出しながら、テレビで流される不思議な光景を見たのでした。

 

 国葬するのだったら、国民が弔うことで死を認識して国民の意識から亡霊のような元総理の影響力が取り除かれることを望んでいました。

 

 しかし、野田氏の追悼演説によって、亡霊を国会に招き入れたので、本当に恐ろしいことだと思いました。このことによって、彼は御霊を消す人だということがわかりました。

 

 御霊を持つ人は、御霊の思いにへりくだり、神の御国に入る準備をしなければなりません。御霊を消す人々が国会を運営するならば、御霊の人は目を開けてしっかりと見極めなければなりません。私たちの主イエスが歩まれた道はこの世の人々の道ではなく、この世の人々の目には隠されたいのちの道、狭き道を歩まれたのです。

 

 「パウロは幾人かの弟子に出会って、『信じたとき、聖霊を受けましたか。』と尋ねると、彼らは、『いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。』と答えた。『では、どんなバプテスマを受けたのですか。』と言うと、『ヨハネのバプテスマです。』と答えた。

 そこで、パウロは、『ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。』と言った。

 これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに望まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。」(使徒19:1-6)

 

 水のバプテスマは、罪の悔い改めのバプテスマです。悔い改めて、キリストの血を受けて罪赦されます。しかし、キリストは、聖霊のバプテスマを授ける方であることを知らなければなりません。水のバプテスマを授けたのは弟子たちであって、イエスご自身は授けられませんでした。神の御子イエス・キリストが授けるのは、聖霊のバプテスマなのです。聖霊は、キリストの贖いの血で罪赦された人々に神の御国に入るための法を授けるのです。

 

 御霊により真理を教えられて、真実を知るのです。生活で起きる様々なこと一つ一つを御霊に聞いて、御霊のみ思いの中で生きることを学ばなければなりません。それは、大勢の人々の意見とは違うかも知れません。しかし、御国に入る人々は、御霊の教えにへりくだらなければならないのです。御霊の思いが神の国の法だからです。