「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ4:17)
これは、ナザレのイエスの宣教開始のことばでした。
天の御国は、悔い改める者の領土のようです。生まれつきのままの人間の状態で味わうことのできるものではないようです。
イエスは、天の御国を何にたとえれば、地に住む人々に伝えることができるかと、似ているものについて語られました。
「それは、からし種のようなものです。それを取って庭に蒔いたところ、生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作りました。」(ルカ13:19)
からし種は、非常に小さい種です。小さいと表現するよりも細かいと言うのが適切だと思います。砂場の砂の一粒よりも細かく、砂場に磁石を入れて取り出す砂鉄のようなものです。
その細かい種を蒔いたら、生長してどんな野菜よりも大きくなり、空の鳥がその木の枝に巣を作るほどの力強く大きな木となるのです。この地上で、軽い息で吹き飛ぶほどの力の無い弱々しい種(キリストの信仰者)にいのちが宿り、天の御国では、この世で力のない者も、豊かな実りを持つというのです。
「私たちの信仰を増してください。」と言う使徒たちに、イエスは言われました。
「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ。』と言えば、言いつけどおりになるのです。」(ルカ17:5,6)
天の御国は、信仰の大きさを問わないようです。からし種ほどの、人のこらした目にやっと確認されるほどのごくごく小さな神への信頼、信仰があれば、地上の常識では考えられない大きな大きなわざを見ることができるのです。それは、人のわざではなく、神の御霊のわざだからです。
権力によらず、能力によらず、神の霊によって、万軍の主がなされるからです。神は、人の権力や能力を必要とはしておられません。神に信頼するからし種ほどの信仰で十分なのです。天の御国は、神の力であり、神の栄光なのです。人は信仰によって、神のみわざを目撃するのです。
また、イエスは言われました。
「神の国を何に比べましょう。パン種のようなものです。女がパン種を取って、三サトンの粉を混ぜたところ、全体がふくれました。」(ルカ13:20)
聖書は、パン種を入れないパンで祭りをしましょう、と言っています。神の御教えに混ぜ物をしてはならない、と言っているのです。また、イエスは、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。」と弟子たちに命じておられます。律法に厳格で神に忠実なように見られるパリサイ人の教えと、ユダヤ人を支配しようとする権力者や神から離れたこの世の教えに、十分注意するようにと言っておられるのです。
御霊を消す名ばかりのクリスチャンの教えや、この世の有力者の教えに、神のみことばと同列の権威を与えてはならない。それは、神の教えではなく、人の教えなのです。神から出たものではなく、人間のものなのです。神の教えに混ぜ物をしないで、純粋に神の御教えを守らなければなりません。神のパンは、いのちのパンでなければならないのです。
イエスが神の国のたとえで言われたパン種とは、混ぜ物の教えのことではなく、パン種そのものの性質のことを言われたのです。パン種を粉に混ぜると、全体がふくれる性質のことです。パン種を入れなければ、ぺっちゃんこの薄いパンとなります。しかし、パン種を入れると、大きくふくらんで、幾つものパンが出来上がるのです。同じ粉なのに、パン種を入れると入れないとでは、出来上がりが全く違うものとなります。
パン種のような性質の天の御国は、わずかなものでも、豊かになるのです。五つのパンと二匹の魚が、男だけでも五千人(女、子どもを入れたら、もっと多くの人数)の人々が食べて満腹し、パンくずを集めたら、12かごにもなったという、あの奇跡のとおりです。
五つのパンと二匹の魚は、一人の少年のお弁当でした。一人分のお弁当が、イエスの祝福の祈りによって、何千倍に増加したのです。これが神の国の在り方であることを示されました。この世しか知らない人間にとっては、不思議なことだらけです。
しかし、主イエスは、からし種ほどの信仰があるならば、同様の神の御霊のわざを見ることができると言われたのです。
イエスは、「どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」と言っておられます。(マタイ17:20)キリストを主とする者には、キリストの御霊が与えられるからです。
イエスおひとりのところで、いつもつき従っている弟子たちが、十二弟子とともにたとえのことを尋ねると、イエスは言われました。
「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため。』です。」
「主よ。救われる者は少ないのですか。」と言う者があった。イエスは、人々に言われた。
「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。」(ルカ13:23;24)
イエスは、宣教の開始に、「悔い改めなさい。」と言われたのです。悔い改めるとは、自分を主とする生き方を改めて、神にいのちの主権をお返しすることです。いのちの所有者は人ではなく、神御自身だからです。人は、神に生かされている者であって、自分で生きている者ではないからです。悔い改めなければ、天の御国を見ることができません。
イザヤの告げた預言があります。
「あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。
それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしに癒されることのないためである。」
自分は正しいと自分を義とする心太らせた宗教家や、神にへりくだらない心高ぶった権力者は、悔い改めることがありません。自分を正しいとする者たちです。彼らには、神の国が隠されます。彼らの目も、耳も、高慢という肉の思いで塞がっており、神の栄光を見ることも聞くこともできません。
弟子たちにイエスは言われます。
「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。
まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。」(マタイ13:16,17)
イエスを信じる者は、天から遣わされた神の御子イエスのわざを見て、天の御国を味わうことができます。天から来られたキリストから神の国のことを聞くことができます。悔い改める者は、イエスが神の御子だとわかるのです。
悔い改めて神に正される者は、天の御国に入るために、狭い門をくぐるために努力します。天の御国を知る者たちは、御霊に聞き従う努力を惜しみません。大きなことではありません。からし種ほどの信仰があればよいのです。