ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神の命令は幸いのため

 

 「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ。―それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ書29:11)

 

 神の契約は、救いであり、永遠のいのちです。いのちを与えるために、神は人にことばを与えられます。最初の人アダムに命じられたことばも、いのちを与えるものでした。死なないための命令でした。

 

 「善悪を知る知識の木の実をを食べてはならない。それを取って食べるそのとき、あなたは必ず死ぬ。」と言われたのです。生きるために、善悪の知識の木の実を食べてはならないのです。神が非常に良いと満足された被造物の「人」は、神の息が吹き込まれた者でした。神御自身が、人の知恵であり、すべての判断は神のうちにあるのです。善は神御自身であり、神に聞き従うことが人の善でした。

 

 神の創造は、善だったのです。善しかありませんでした。人が悪を知る必要はなかったのです。悪と戦うのは、神であって、人は神に守られているものでした。しかし、善悪を知る知識の木の実を食べたとき、人のうちに悪が入ってきました。善である神のことばだけでなく、悪である悪魔のことばも受け入れる者となってしまったのです。

 

 「善悪を知る知識の木の実を食べてはならない。」とは、人を悪魔から守り、死から守る神のことばだったのです。神は人を牛耳るため、懲らしめるために命じたのではありませんでした。神の命令は、人に平安を与えるためのものであり、人の幸いのためのものなのです。

 

 「神である主は、あなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。この方があなたがたに語ることはみな聞きなさい。」(使徒3:22)

 これは、イスラエル(神の民)となったユダヤ民族に、神の人モーセを通して神が命じた、神の命令でした。

 

 イスラエルは、その後、数千年にわたり、このみことばを信じて、その預言者を待ち望んでいます。

 

 このモーセが語った預言者、神がイスラエルに遣わすと約束されたメシアは、すでに来られました。しかし、心高ぶり、神の霊にへりくだることのないユダヤ人たちは、そのことを悟ることなく、キリストが語る神のことばを憎み、彼を辱めました。

 

 モーセの命令には、続きがありました。「その預言者に聞き従わない者はだれでも、民の中から滅ぼし絶やされる。」

 

 神が遣わした神の御子イエスのことばに聞き従わない者は、祭司であろうと、律法学者であろうと、パリサイ人であろうと、民の長老であろうと、神に仕えるために召されたレビ人であろうと、最高権威者の大祭司であろうと、イスラエルから滅び絶やされる、と言われたのです。

 

 イスラエルは神に選ばれた民です。それで、自分たちは神の民であるとして、異邦人を蔑み、異邦人を汚れた者、自分たちを聖なる民としてきました。その聖なる民であっても、神が遣わされた神の御子キリストに聞き従わないならば、聖なる民ではなくなる、と言っているのです。聖なる民でないならば、永遠の裁きを受けることとなるのです。

 

 神と契約を結び、多くの約束をいただいているイスラエルであっても、神が遣わされた神の御子イエス・キリストに聞き従わないならば、滅ぼし絶やされるのです。神は、イエス・キリストにイスラエルの王としての権威を与えておられるからです。神が定められた王の権威に聞き従わない民は、牢に入れられます。牢に入れられてもなお、悔い改めない者は、イスラエルの王の国から追放されるのです。

 

 イエス・キリストの使徒ペテロは言っています。

 「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」(使徒2:38)

 

 「悔い改める」ことと、キリストの名によるバプテスマを受けるようにと言っています。

 

 弟子たちも、悔い改めの(バプテスマのヨハネの)水のバプテスマと、キリストの名による聖霊のバプテスマを受けたのです。彼らの主イエスもまた、バプテスマのヨハネから水のバプテスマを受け水から上がられると、御霊を受けられたのです。

 

 悔い改めて罪が赦されるだけではなくて、主イエスが約束された聖霊を受けるのです。これが、世からの救いであり、永遠のいのちなのです。

 

 聖霊は、キリストの御霊であり、聖霊を受けた者のうちに住まわれるのです。御霊の住まいとなった者は、御霊によって新しく生まれた者です。御霊がうちに住まう人は、聖霊の宮であり、神の宮なのです。神の子どもとして、御霊によって育てられます。

 

 御霊を持たない者は、キリストを告白していても、神の子どもではありません。なぜなら、御霊は、キリストのことばを思い起こさせ、真理を教え、歩みを導く助け主、キリストの御霊なのです。御霊を心に迎えない者は、自分の知恵と力で信仰の道を歩もうとしますが、それは地図と方位磁石を持たないで、山に入り、遭難することを意味します。

 

 キリストの道は、御霊によって導かれるのです。御霊の助けがなければ、その道を見出すことができません。それは、肉の思いには隠されているからです。

 

 神の子どもが、神の御国に辿り着くのに、必要だから、神は、聖霊を注がれ、御霊を地に遣わしておられるのです。

 

 イエスは言われました。

 「わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒瀆は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にするものでも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。」(マタイ12:31,32)

 

 たとい、キリストを主と告白して熱心に主に仕えている者であっても、聖霊に逆らうことを言う者は、神の裁きにあうのです。聖霊は神の霊であり、裁き主である神御自身でもあるのです。人が語っているのではなく、また、人のわざではなく、父のことばであり、父のわざなのです。聖霊に逆らう者は、父に逆らう者であり、父に背く罪なのです。

 

 イエスご自身も御霊とともに歩まれました。そして、弟子たちに、「聖霊を受けなさい。」と命じておられます。

 

 生まれながらの人間は、御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。御霊を受けている人(霊に属している人)は、すべてをわきまえますが、自分自身(その人自身)は、人(肉に属している人)にわきまえられません(人に感知されることがない)。(コリントⅠ 2:14,15)

 

 神は、御霊によって、神を「アバ、父。」と呼び、栄えに満ちた喜びと、主への愛と、平安を与え、魂の救いと神の子どもとされる希望の信仰を与えてくださいます。

 

  モーセは、神の命令をイスラエルに告げました。

 「この方があなたがたに語ることはみな聞きなさい。この方に聞き従わない者は、だれでも、民から滅ぼし絶やされる。」

 この方(イエス・キリスト)は、ご自分の弟子たちに命じられました。

 「聖霊を受けなさい。」

 これは、主イエス・キリストの命令です。「御子に聞き従わなければ、民から滅ぼし絶やされる」という父の命令に保証された、キリストの権威による命令です。

 

 神の命令、神の御子キリストの命令は、人の幸いのためなのです。