ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

ユダヤ人に妬みを起こさせるクリスチャンの信仰

 

 メシアニック・ジュ―の集会に参加しました。「イスラエルの救いと日本の救い」というテーマの集会でした。

 

 チョーズン・ピープル・ミニストリーズの責任者である講師は、異邦人クリスチャンのカップルとの出会いがきっかけで、救い主キリスト・イエスに出会われたそうです。

 

 この講師のおじいちゃんとおばあちゃんは、クリスチャンによって殺されました。ユダヤ人であるという理由で、イエス・キリストの御名によって殺害されたのです。遺族は、クリスチャンを憎みました。クリスチャンが掲げるイエス・キリストの御名を憎みました。

 

 ユダヤ人にとって、ユダヤ人のいのちを狙うクリスチャンは敵です。神から聖書をいただき、神の民として神の約束の実現を待ち望んで来たユダヤ人。異邦人のクリスチャンは、十字架で死んだナザレのイエスがキリスト(救い主)だと信じています。

 

 ユダヤ人が待ち望んで来たイスラエルのメシアがどうして、ご自分の民のイスラエルを殺害する意に燃えるのでしょう。異邦人は神(生けるまことの神)もなく、望みもない民ではありませんか。彼ら(クリスチャン)は、神の選民の割礼のしるしがありません。彼らは、神の契約の律法の下に服していません。明らかに、イスラエルの聖なる神の民ではないはずです。

 

 ナザレのイエスが本当にイスラエルのメシアであるならば、イスラエルを助け守り、イスラエルを絶滅しようとする異邦の民の勢力を打ち破ってくださるはずです。それなのに、キリストの民と名乗る異邦人(クリスチャン)たちは、ユダヤ人を迫害し、滅ぼすことが神の正義であり、イエス・キリストのしもべの使命だと信じて、その手をゆるめません。悪魔そのものです。

 

 神の選民のイスラエルに対する妬みによって神の御霊を消し、悪魔の支配を受けた自称クリスチャンたちの悪魔のわざは、ユダヤ人の心に、イエス・キリストはユダヤ人の血を求める悪魔であり、クリスチャンは、悪魔に支配された集団であると深く刻まれました。

 

 イエス・キリストはクリスチャンを使って、ユダヤ人を迫害しイスラエルを絶滅しようとする悪魔であり、イエス・キリストのことが書かれた「新約聖書」は、悪魔の書であると、長い間信じられて来ました。ユダヤ人にとって、聖書は旧約聖書だけだったのです。

 

 キリストとクリスチャンを憎むユダヤ人(講師)が、クリスチャンのカップルと出会いました。そのカップルには、今まで信じて来たクリスチャン像が感じられません。とても、愛に満ちています。ユダヤ人のいのちを狙っているクリスチャンとは、別もののようです。同じクリスチャンなのでしょうか。

 

 とても親切です。ユダヤ人を蔑むことも、憎む様子もありません。クリスチャンなのに、なぜか、ユダヤ人の心を包むように安らぎを与えてくれます。ユダヤ人(講師)の心は、そのクリスチャンのカップルを受け入れました。友であると思えるのです。敵であるはずのクリスチャンが、心許せる友に感じるのです。

 

 友と感じたユダヤ人(講師)は、そのカップルをクリスチャンとしてではなく、ひとりの人として見ました。そして、なんて謙遜でへりくだった人たちなのだろうと思ったのです。自分もこのような人になりたいと強く願いました。

 

 このカップルをこのような人格者にしたのが、イエス・キリストであることを知りました。イエス・キリストは、ユダヤ人を愛しておられる方であることを知りました。イエス・キリストは、ユダヤ人だったのです。

 

 異邦人の神、イスラエルの聖なる方に立ち向かう悪魔だと信じていたイエス・キリストは、ユダヤ人であり、ユダヤ人を愛する神の御子であり、イスラエルに約束されていたメシアであることを知るに至りました。

 

 イスラエルの聖なる神がイスラエルに遣わした神の御子イエスを信じなかったことが、イスラエルの神を怒らせていたことに気づいたのです。神が遣わされたキリストを信じないで拒絶していることは、ユダヤ人の罪であることを悟り、神に悔い改めて、主イエスを心に迎えました。イエス・キリストがユダヤ人 (講師)の主となられたのです。

 

 「ユダヤ人がつまづいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、ユダヤ人の違反(神が遣わされたキリストを信じないで、イエスを迫害し殺害したこと)によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルに妬みを起こさせるためです。」(ローマ11:11)

 

 ユダヤ人の不信仰によって、キリストの福音は異邦人に広まりました。ユダヤ人の違反が世界の富(永遠のいのち)となったのです。ユダヤ人が神に聞き従うことに違反した失敗が異邦人の救いとなったのです。

 

 異邦人の使徒として召されたパウロは言います。

 「私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。そして、それによって何とか私の同国人(ユダヤ人)に妬みを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。」(ローマ11:13,14)

 

 ユダヤ人が救われるために、異邦人の救いが用意されたとも言えます。神の平和を求め、熱心に神に仕えたユダヤ人よりも先に、異邦人の方が先に神の用意された平安を味わっているのです。律法の違反を恐れ、律法の奴隷状態のユダヤ人たちが味わったことのない、栄えに満ちた喜びを胸に、生きた信仰(生ける神の御子イエスを主とする信仰)で永遠のいのちの望みを手にしているのです。

 

 本物の信仰を持つクリスチャンの謙遜と愛に、霊の乾いたユダヤ人は潤いを見出し、彼ら(クリスチャン)のうちにある御霊(生ける神の霊)に嫉妬するのです。ユダヤ人のうちに芽生えた妬みは、キリストの御霊を求めて、クリスチャンの主であるイエス・キリストに出会うのです。

 

イエスも言われました。

 「まことに、あなたがた(ユダヤ人)に告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったからです。」(マタイ21:31、32)

 

 律法を厳格に守るユダヤ人たちの歩みの先には、神の国はありません。神の国は、罪を赦す神の子羊イエスの贖いの血によって罪が贖われた者たちの入る領域です。神が用意された贖いを受けなければ、聖とはされないのです。

 

 律法の下にいるユダヤ人は、律法にこだわります。しかし、律法によっては救われないのです。律法が聖としてくれるのではありません。キリスト・イエスの贖いの血が、罪の赦しの伴った救いであり、キリストの御霊が、永遠のいのちによる神の国なのです。

 

 イエスは、これこそが神の民のしるしであるとして律法にとらわれたユダヤ人よりも、律法の枠から外れた世俗的なユダヤ人や、偶像を慕っていた異邦人のほうが先に神の国に入っている、と言われました。

 

 ユダヤ人の講師は、御霊を消すクリスチャンに悪魔を見、御霊に満たされたクリスチャンにキリストの愛を見たのです。クリスチャンは、うちにあるものを映し出します。御霊を消す人は、悪しきものの仕業といのちを奪う死を生み出します。御霊に満たされた人は、キリストの愛と謙遜を現わし、いのちを生み出します。

 

 ユダヤ人(講師)の友となったクリスチャンのカップルは、この講師のために祈り、執り成したのだと思います。彼らのうちにおられる御霊の働きです。講師はクリスチャンのカップルを見ていたのですが、実は、彼らのうちにおられるキリストの御霊と、キリストの御姿を見ていたのだと思います。

 

 ユダヤ人に妬みを起こさせるクリスチャンの信仰とは、キリストの御霊ご自身の信仰であり、それは御霊に聞き従うクリスチャンの謙遜の賜物なのだと思います。