ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

キリストのからだの肉と御霊

 

 「血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだに甦らされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」(コリントⅠ 15:44)

 

 イスラエルは、神がメシアを送ってくださると信じて、待ち望む民です。メシアが来られたならば、平和が訪れるはずです。イスラエルは長い間、平和を待ち望んでいるのです。帝国に支配されていた時も、離散して国を失っている時も、ホロコーストの残虐な殺戮の最中にも、1948年にイスラエスが建国しユダヤ人がイスラエルの地に帰還してイスラエル国家が実現した後でも、ずっと平和を待ち望んで来ました。

 

 そして、神の契約の地を相続し、守るために戦っています。イスラエルは、平和の君イエスを拒み、自分の知恵と力に頼って戦っています。もしもイスラエルが、十字架にかけた主イエスに向くならば、思いの覆いは取り除かれて、待ち望んでいたメシアがイエス・キリストであることを知るでしょう。

 

 メシアを悟ったイスラエルがイエス・キリストの御名を呼び求め、神の助けを求めるならば、神御自身が戦ってくださるはずです。しかし、彼らは自ら、平和を実現されるメシアを退け、自分で戦っているのです。

 

 ナザレのイエスを主キリストとして迎えるならば、彼らの心は平和で満たされます。平和の主のものとなった彼らに、神は喜んで、彼らに御計画を解き明かし、平安を与え、安全に守られるでしょう。

 

 イスラエルほど平和を待ち望んで来た民はいません。今に始まったことではありません。ダビデ王の頃からずっとそうです。世代が変わっても、イスラエルは平和な世を待ち続けているのです。

 

 しかし、神が望まれるのは、神との平和です。神が遣わされた神の御子イエス・キリストを迎え入れる時、神と和解します。神は、すでに和解の仲介者(神の子羊イエス)をイスラエルに遣わしておられるのです。

 

 神の子羊イエスは、イスラエルの贖いのために来られました。神の民イスラエルが贖われることは、被造物が贖われることです。神の民イスラエルの不信仰の罪は、イスラエルだけではなく、すべての被造物の苦悩です。神の民イスラエルが神に罪赦されないままですと、世界は罪の中に置かれたままです。

 

 イスラエルが不信仰を続けなければ、イスラエルのメシア(復活のキリスト)につぎ合わされ、天からメシアが平和を連れてやって来られるのです。

 

 彼らの待ち望んだメシアは、肉体を持って来られ、肉体の死によって罪から解放されました。そして、死んで墓に入り、三日目に御霊のからだで甦り、永遠に生きるキリストになられたのです。

 

 ユダヤ人のイエスが死んで甦り、全人類の救い主キリストとなられました。イエスは血肉においてはユダヤ人です。しかし、御霊においては新しいひとりの人なのです。

 

 クリスチャンがキリストを信じると、血肉の家族がありながら、霊の家族(キリスト教会)の一員となります。血肉の家族は、肉の家族です。死から甦るものとはなっていません。血肉の家族の中から、キリストの血と御霊によってクリスチャンが生まれ、霊の家族の一員となったのです。クリスチャンは血肉の家族のひとりでもあり、霊の家族のひとりでもあるのです。

 

 キリスト教会は、キリストの御名により神に立ち返り、父と子と御霊によって新しく生まれたキリストのからだです。肉の創造から霊の創造に造り変えられた人々は、キリストのからだの一部となります。血肉の家族は、血筋やともに生活することによってひとつのものだと考えます。しかし、霊の家族は、主イエス・キリストにあってひとつのものとなります。人々はこれを、神の家族と呼びます。

 

 血肉のからだで蒔かれた者が、キリストによって、御霊に属するからだに甦る希望を持つ者とされたのです。

 

 神の家族には、キリストのいのちと愛の約束があります。信仰と希望と愛で成り立っています。神の家族の中心には、イエス・キリストの父がおられ、イエス・キリストの御名によって祈ります。主イエスの御名により神を賛美し、神のことばを聞きます。

 

 地上を歩まれた肉体のイエスのことばを忠実に守ろうとする神の家族もあれば、死から復活されたキリストの御霊に聞き従う神の家族もあります。一方は、聖書を読まなければならない、祈らなければならない、奉仕しなければならない、と縛られたような不自由な思いを殺して励みます。もう一方は、栄えに満ちた喜びにおどり、イエスを愛し、真理を知りたいと教えを口ずさみ、主のために奉仕したいと思い、御霊にゆだねます。

 

 肉の力で努力する家族と、御霊の導きにゆだね聞き従う家族がいます。血肉の家族から神の家族に入りました。世とは一線を画した新しい家族です。

 

 神の家族では、イエスとともに歩んだ弟子たちのような人々がいます。イエスがまだ復活しておらず、御霊を受けていない弟子たちです。イエスにたとえ話で語られても理解できず、天上のことがちんぷんかんぷんです。わかったようなわからないような‥真理に覆いがかかったような状態です。

 

 「今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」と言われたイエスのことばに、「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」と言ったピリポと同じです。

 

 イエスは言われました。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたと一緒にいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」(ヨハネ14:7-11)

 

 幸い、今は聖霊が注がれた後の時代です。死から復活されたキリストは弟子たちのために真理の御霊を与えられました。御霊を受けた使徒たちは、御霊に教えられ、すべてのことを御霊によって理解します。

 

 イエスのわざを目撃する体験もなく、聖書の記事を知るだけでは、信仰が成長しません。今は、聖霊の時代です。父が遣わされたキリストの御霊を受けなければ、使徒のような生きた信仰を持つことができません。

 

 神の家族も、イエスを信じる信仰から、イエスを愛し、聞き従う信仰に成長することが大切です。そのためには、真理の御霊の助けが必須です。御霊は真理を教えてくださいます。いのちの道の狭き門に入るためには、私的解釈を避けなければなりません。預言は人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのです。御霊によらなければ、解き明かすことができないのです。

 

 キリスト教会に集められた人々は、世から召され神の国に向かう家族です。しかし、教会は地上にあるもので、神のことばを地上のことばで教えます。神のことばを神の霊で知るためには、聖霊を受ける必要があります。

 

 血肉の家族と神の家族があるように、キリストの教会と御霊の教会があります。地上の教会がそのまま御霊の教会ではないのです。御霊を受け御霊に聞き従う人々が御霊の教会であり、復活のキリストを主とする新しいキリストのからだです。

 

 地上教会が引き上げられるのではなく、信仰をもって御霊を受け、御霊によって真理を知り、キリストの御霊に聞き従う人々が御霊の教会として引き上げられるのです。

 

 黙示録5:6に、天上の子羊のことが書いています。

 「屠られたと見える子羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。」甦られた子羊イエスが、神の御座の前におられる七つの御霊(黙示録1:4)と七つの御霊の教会の主権(角)を持っておられます。

 

 「子羊イエスは、神の七つの御霊、および七つの星(七つの御霊の教会)を持つ方です。」(黙示録3:1)キリストの教会ではありません。天上に上げられる七つの御霊の教会を持つお方なのです。

 

 地上の教会はキリストのからだのひな型です。御霊を受けた人は心から「アバ、父。」と呼びます。また、心に消されることのない信仰が置かれます。そして、信仰の結果である魂の救いを得るのです。

 

 救いは、復活のキリストが与えてくださった御霊にあるのです。御霊が、救いのことばを霊に記してくださるからです。

 

 御霊の教会は物質的なものではありません。霊的存在です。御霊によって新しく生まれた魂の集合体です。これこそが、まことのキリストのからだ、永遠に神の御前に存在する復活のキリストのからだなのです。