ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

キリストの教会の歩み 御霊の教会の歩み

 

 「律法を守るユダヤ人は、神に対して熱心であります。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。

 キリストが律法を終わらせたので、信じる人はみな義と認められるのです。」(ローマ10:2ー4)

 

 ユダヤ人に与えられた律法は、神の御子イエスによって完成しました。律法における神の目標は、ナザレのイエスによって完成したのです。そして、贖いの子羊イエスが律法の違反の呪いを受けて死なれました。神は、イエスを死の苦しみから解き放って死者の中から甦らせられ、復活のキリスト、永遠に生きるメシアとされたのです。

 

 神は人に律法による義を求めてはおられません。神が、主ともキリストともされたナザレのイエスを信じる信仰を求めておられます。

 

 「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中から甦らせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:9,10)

 

 ナザレのイエスは、モーセがイスラエルに、「この方があなたがたに語ることはみな聞きなさい。その預言者に聞き従わない者はだれでも、民の中から滅ぼし絶やされる。」と忠告した、神が遣わされたキリストだったのです。

 

 神は、律法によっては義とされることのない民(なぜなら、人は律法を犯す原罪をかかえているから)に、人にはできない「神の義」を全うする神の御子を遣わされたのです。

 人は、この神の御子キリストを信じることで、義とされる。これが、神が人に用意された、神の義なのです。神に受け入れられる人は、神の御子イエス・キリストを信じる者です。神の御子イエスを信じる者を義とすることが、神御自身の義です。

 

 死から甦り、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、聖霊をお注ぎになられました。神に義とされた人々に、聖霊のバプテスマを授けられるのです。

 

 ノアの時代、神は天からの雨を降らせ、水によって、地をきよめ、世の罪の呪いを贖われました。そして、神に聞き従うノアを世の滅びから救い出されたのです。

 

 イエスは、流された贖いの血によって、世の罪を贖われました。天に上られた子羊イエスは、聖霊をお注ぎになります。この聖霊によって、世の裁きから救い出されるのです。

 

 ノアは水をくぐって、世の滅びから救い出されました。イエスの弟子たちは、聖霊を受けて、死と裁きから救い出されるのです。

 

 一方は、肉による救いです。もう一方は、霊による救いです。肉の救いは、一時的なものです。やがて、死を迎えます。しかし、霊の救いは、永遠のものです。もはや、死も裁きもありません。永遠に生きるのです。

 

 イエスの弟子たちは、イエスとともに歩みました。イエスのことばを聞き、信じました。イエスから多くのことばをゆだねられました。しかし、彼らは理解できなかったのです。

 

 イエスがご自分の死と復活について語られたときには、耐えられませんでした。イエスは言われました。「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。」(ヨハネ16:12)

 

 イエスが弟子たちに話されたのは、弟子たちがつまづくことのないためでした。イエスは言われました。

 「わたしがあなたがたに話したために、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています。しかし、わたしは、真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。

 その方が来ると、罪について、義について、裁きについて、世にその誤りを認めさせます。」(ヨハネ16:6-8)

 

 罪とは、神が遣わした御子イエスを信じないこと、義とは、イエスを信じる者がキリストの御霊によって死から復活すること、裁きとは、イエスが勝利し、悪魔が裁かれたことです。

 

 イエスを信じる人々は、イエスが遣わされたもうひとりの助け主聖霊によって、世に勝つ者とされるのです。

 

 「神によって生まれた者は、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。

 世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(ヨハネⅠ 5:4,5)

 

 イエスを証する方は御霊です。御霊は真理(神)だからです。イエスは、聖霊のバプテスマを授け、信じる者のうちに真理の御霊を住まわせてくださいます。そして御霊が、勝利する信仰を得させてくださるのです。

 

 御霊を受ける前の弟子たちは、イエスに従っていました。そして、神の御子イエスではなく、人としてのイエスを見ていたのです。

 

 イエスが、十字架の死と復活を示し始められました。すると、「あなたは、生ける神の子キリストです。」と告白したペテロが、「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずがありません。」とイエスを引き寄せて、いさめたのです。

 

 イエスはペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(マタイ16:21-23)

 

 御霊を受けていない弟子たちは、イエスを思い、神の御心を邪魔する者だったのです。また、イエスが捕まった時、弟子たちは散り散りに逃げました。自分の命を愛する者だったのです。

 

 しかし、復活のイエスに出会った弟子たちの信仰は立て直されました。イエスが命じられた「聖霊を待ち望みなさい。」のことばに従い、神の約束を信じて聖霊のバプテスマを受けたのです。

 

 聖霊を受け、御霊を宿す弟子たちは大胆にイエスを語りました。死に至るまで忠実に神に従い通す、キリストのしもべとなったのです。真理の御霊が彼らを新しい人に造り変えました。

 

 御霊を受けていないと、自分の信仰で苦難に立ち向かわなければなりません。イエスをおいて逃げた弟子たちのように、自分の信仰は頼りないものです。

 

 御霊を受けると、聖霊がその人の霊を強め、励まし、助けてくださるので、御霊の信仰で歩むようになります。

 

 「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいのかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」(ローマ8:26)

 

 御霊は、神の御心に従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

 

 キリスト・イエスとともに歩んだ弟子の歩みから、御霊を受けて、復活のキリストを証する歩みにシフトしなければ、真理を理解できません。御霊を宿す信仰の歩みが、確かな信仰の歩みであり、いのちの道なのです。

 

 御霊の神殿であったイエスのことばを受け、ひとりの指導者イエスに従う時代は終わりました。キリストは、ひとりひとりに御霊を分け与え、神の御子イエスを信じる者ひとりひとりが御霊の神殿とされる、新しい創造をされるのです。

 

 うちなる御霊に聞き従う人々は、神の子どもとされます。そして、御霊の宮なる人を同一の御霊によって、キリストのからだ、新しいひとりの人とされるのです。