ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

眠りから醒める時

 

 「主に連なる外国人は言ってはならない。『主はきっと、私をその民から切り離される。』と。宦官も言ってはならない。『ああ、私は枯れ木だ。』と。

 

 まことに主はこう仰せられる。

 『わたしの安息日を堅く守り、わたしの喜ぶことを選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。

 また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった外国人がみな、安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。』」(イザヤ56:3-7)

 

 神は契約の無かった無割礼の外国人をも、神の御子イエスの贖いの血の契約によって、ご自分の民に加えられます。神に忠実なユダヤ人が、「あなたがた外国人は、異邦人であって、イスラエルではない。」と言ったとしても、神の民に属さなくなるわけではありません。イエス・キリストにあって、神の子どもとされるのです。イスラエルが神に受け入れられるならば、主イエス・キリストの御名を呼ぶ者もまた受け入れられるのです。

 

 律法から離れ、ユダヤ人のコミュニテイーから締め出されているユダヤ人も、「律法を守らないから、ユダヤ人ではない。」とユダヤ教徒に疎外されても、神の民に属さなくなるわけではありません。たとい、律法を守らず、ユダヤ人として歩んでいなくても、主イエス・キリストにあるならば、神の子どもなのです。「自分はユダヤ人の契約を捨てた枯れ木だ。ユダヤ人の実を結ぶことがない。」と言ってはなりません。主は、彼らに、ユダヤ人にまさる分け前と永遠の名を用意しておられるのです。

 

 契約の民ユダヤ人であり、割礼も律法も厳格に守り、神に忠誠を誓っていると自負しているユダヤ人は、自分たちが盲目であることに気づいていません。

 

 「見張り人はみな、盲人で、知ることがない。彼らはみな、おしの犬で、吠えることもできない。夢を見て、横になり、眠りをむさぼっている。この貪欲な犬どもは、足ることを知らない。

 彼らは、悟ることも知らない牧者で、みな、自分勝手な道に向かい、ひとり残らず自分の利得に向かっていく。『あすも今日と同じだろう。もっと、素晴らしいかもしれない。』」(イザヤ56:10-12)

 

 神の御子イエス・キリストを拒む彼らは、聖書のみことばを読んでも主イエスの御霊から教えを受けることがないので、真理を知ることがなく、世に警告を与えることもできません。「明日も今日と同じだろう。」と言って、時代を悟りません。今の時代の中で、利益を得ることに夢中になっています。

 

 神の御使いは主イエスの権能をもって、神から外れた神の民をサタンの手に引き渡しました。それは彼らの肉が滅ぼされるためですが、それによって彼らの霊が主の日(メシアである主キリスト・イエスがイスラエルに再臨される日)に救われるためです。

 

 パウロは言っています。

 「あなたがたは、今がどのようなときか知っているのですから、だれにでも義務を果たし、だれに対しても何の借りもせず、愛をもって行いなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じた頃よりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。

 夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、闇のわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。

 遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、妬みの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。

 主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」(ローマ13:11-14)

 

 バプテスマを受けてキリストにつく者とされた人はみな、キリストをその身に着たのです。(ガラテヤ3:27)

 

 聖なる神の民は、闇の世の中で、光の武具を着けることができます。神のみことばを握り、主イエス・キリストの御名によって祈り、感謝と賛美を献げ、主イエス・キリストの信仰に立ち続けることです。

 

 世に目を奪われ、肉の欲のために心を用いることは、救いを遠ざけます。この世と調子を合わせてはいけません。

 

 神の御心は何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ12:2)

 

 決断が大切です。神を選ぶ決断です。世のものの中で、まどろむ時は終わりました。新しい世に入る備えをしなければなりません。

 今は、眠りから醒める時です。新しい世に向けて、心を一新させる時なのです。