木にかけられた者は呪われた者である。これは、神を知るユダヤ人の常識でした。木にかけられたイエスは、神に呪われた者なのです。
神に呪われたナザレのイエスを、ユダヤ人は、憎みました。木にかけられたイエスを嘲り、呪いました。彼らにとって、木にかけられた者を忌み嫌い、呪うことは、イスラエルを聖とすることであったのです。
聖なる神の民イスラエルから、不義を取り除かなければなりません。不義を取り除いて、神に聖とされなければならないのです。
パンはわずかなパン種で膨れ上がってしまいます。わずかな人の不義が、イスラエル全体を汚してしまうのです。イスラエルを悪いものとする不義の者は、民から取り除かなければなりません。
イエスは人であるのに、自分を神の子であるとして、聖なる神を汚す者です。イスラエルは、他の民族とは違います。神に罪を犯すことは、最も赦されない罪です。他の民族で許されることでも、神に対する罪は、イスラエルでは、厳重に裁かれなければならないのです。
ユダヤ人は、イエスが神に対して罪ある者であると訴えました。聖なる神を汚す者、神への冒瀆の罪でイエスを訴え、最も呪われた罪人を処刑する十字架刑にさらしました。
ユダヤ人は、十字架にかかるイエスを見上げて、神に呪われた者を目に映したのです。
神に呪われた者を憎しみ、罵ることで、民衆は神の御前に正しいことをしている、と思ったことでしょう。神を汚す者は、処刑されなければなりません。
総督ピラトが書いた罪状書きには、「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と書いてありました。それはヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語で書いてありました。ユダヤ教徒ではないピラトは、イエスに罪を認めていなかったからです。
イエスは大声で叫んで言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。太陽は光を失っていた。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。地が揺れ動き、岩が裂けた。
イエスがこのように息を引き取られたのを見た百人隊長は、神を褒めたたえ、「本当に、この方は正しい方であった。」「この方はまことに神の子であった。」と言った。
また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、こういういろいろの出来事を見たので、胸をたたいて悲しみながら帰った。(ルカ23:44-48、マルコ15:37-39、マタイ27:50,51)
三日目に墓から甦ったイエスは、復活のからだで弟子たちに会われ、聖霊を受けるように命じられました。そして、復活のキリストの福音を宣教するように命じて、弟子たちの見ている間に、天に引き上げられたのでした。神の御子である神の子羊イエスは、ご自分を遣わされた父のもとに帰られたのです。
復活したキリスト・イエスの約束どおり、弟子たちはエルサレムに集まって聖霊を待ち望みました。神は、彼らに聖霊を注がれました。聖霊のバプテスマを受けた彼らは、御霊によって大胆にキリストの福音を語り続けました。
彼らの福音のことばを聞いたユダヤ人は、動揺しました。ペテロは言いました。「イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
極悪人バラバの釈放を要求して死刑にしたナザレのイエスが、ユダヤ民族が待ち望んでいたキリストだったのです。ユダヤ人たちは、神が遣わされた神の御子キリストを、神に呪われた者として、十字架につけてしまったのです。何ということをしてしまったのでしょう。
イスラエルの神が遣わされた神の御子キリストを呪ったのです。赦される罪ではありません。神の御子イエスを処刑にした、自分たちユダヤ人が、神に裁かれる者となっているではありませんか。自分たちは神にあって正しいことをしていると思っていたのに、実は、神に敵対し、神に逆らう者だったのです。
人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。
そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」(使徒2:36-39)
ペテロのことばを受け入れた者は、バプテスマを受け、キリストの弟子に加えられました。
イエス・キリストを木にかけ、殺した者でさえ、悔い改めてバプテスマを受けるならば、その罪が帳消しにされるのです。キリストを十字架につけたことは、罪の贖いのためでした。罪人のすべての罪は、キリストの贖いの血によって贖われ赦されるのです。なんという恵みでしょうか。罪を悔い改めて神の御子キリストを信じる者は、罪を赦されるだけではなく、聖なる神の御霊が与えられるのです。
神は、十字架のキリストの贖いを信じる者の罪を赦し、義とされます。また、キリストの御名によって、神の賜物である御霊を授けてくださるのです。
十字架のイエスを見て、木にかけられた呪われた者と見るのか、罪の贖いの神の子羊、神の御子キリストと見るのか。イエスは、神が用意された試みの石です。
「あなたの死人は生き返り、私の亡き骸は甦ります。さめよ。喜び歌え。ちりに住む者よ。あなたの露は光の露。地は死者の霊を生き返らせます。」(イザヤ26:19)
神の御子は、死から甦りました。神の御子キリストにつく者の死には、希望があります。神は、死者の霊を生き返らせてくださるからです。
「神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。
私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。
ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人にとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。」(コリントⅡ 2:14-16)
十字架のイエスを崇め、祝福する者は、キリストのかおりを放ちます。それは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいかおりです。いのちを求める人々にとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。
木にかけられたイエスを呪う者は、キリストのかおりを憎みます。彼らにとっては、死から出て死に至らせる、嗅ぎたくないかおりです。
イエスの十字架は、人々の心を試します。
キリストの十字架は、いのちの道と死の道の分岐点です。どちらの道を行くかは、十字架のイエスをどう見るかによります。木にかけられたイエスをどうとらえるかによって、死に向かう人々の歩みが、祝福と呪いに分かれるのです。