ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

生まれながらの人間

 

 「神が賜った御霊について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。

 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。

 なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」(コリントⅠ 2:13-14)

 

 神の御心のことは、神の御霊のほかにはだれも知らないのです。人の心のことをその人のうちにある霊のほかに、知らないのと同じです。

 

 生まれながらの人間は、地から出た血肉の者です。心の中に、苦い妬みと敵対心があるならば、その人の知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属します。妬みや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあります。(ヤコブ3:14-16)

 

 義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。神の御霊が与える上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、憐れみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。(ヤコブ3:18,17)

 

 イエスを信じていない人でも、その人の愛の行ないや憐れみの心に神の御霊が働くことがあります。聖霊が地に注がれているからです。しかし、自分の栄誉を求めるならば、御霊が留まることはありません。

 

 神の神殿に加えられておらず、御霊の器でない人も、御霊の働きによって、御霊の知恵に動かされることがあります。その人のうちに憐れむ心があり、純真で親切な心が御霊を引き寄せるのです。神の国から遠くないのです。

 

 「すべての命令の中で、どれが一番大切ですか。」という、律法学者の問いに、イエスは答えられました。

 「一番大切なのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」

 

 そこで、この律法学者は、イエスに言った。

 「先生。そのとおりです。『主は唯一であって、そのほかに、主はない。』と言われたのは、まさにそのとおりです。また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する。』ことは、どんな全焼の生贄や供え物よりも、ずっとすぐれています。」

 

 イエスは、彼が賢い返事をしたのを見て、言われた。

 「あなたは神の国から遠くない。」(マルコ12:28-34)

 

 神の民ユダヤ人だから、神の国の中にいるのではないようです。ユダヤ人も皆、神の国の外にいる人々です。その点では、異邦人と同じです。ただ、神の国に招かれた民族であるという点では、大きな違いがあります。

 

 民族として、神の国に招かれているのです。そのような民族は、世界の数多い民族の中でも、唯一、ユダヤ民族だけです。

 

 神の律法を守るという行為は、生まれながらの人間にもできます。欲望を殺して、奴隷のように仕えるのです。生まれながらの人間には苦しみが伴います。律法を守ることは義務であり、そこには、平和な心も喜びもないのです。また、自分の力で完全に守ることができないことを思い知ります。そして、抑圧された精神は憐れみをおろそかにして、律法を守らない者をさばき、心に平安がありません。

 

 御霊の与える、泉のように腹の底から湧きあがる喜びと平安は、生まれながらの人間が持っていないものです。喜んだと思ったら、落胆し、心はいつも揺れ動きます。心の中は、ぐちゃぐちゃです。一人になると、どこからともなく、不安が押し寄せて来ます。

 

 すべての責任を一人で負う人もいます。すべての責任から逃げ出す人もいます。自分一人で生きているからです。

 

 しかし、神に繋がっている人は、すべてを失っても、神との細い繋がりが残っています。決して一人ではありません。一人ではないから、転んでも起き上がることができます。細き繋がりの先には、慰め励まし続ける神の存在があります。

 

 神の御霊を宿す人は、うちから、御霊に支えられます。絶望のどん底には神の支える御手があります。生き続ける力を与えてくださるのです。困難の中にも、神への希望の灯、神のことばを見出させてくださるのです。

 

 生まれながらの人間と、神に繋がる人と、神の御霊を宿す人には、それぞれの歩みがあります。

 

 生まれながらの人間のままでは、心の平安を持つことができません。彼らにとって、それは興味のないことだからです。彼らにとっては、この世が天国です。世の愉しみを謳歌して、日々を過ごします。

 

 しかし、天の御国を夢見る人々は、この世の延長にその所がないことを知り、そこに行く手だてを探り求めます。そして、精神的な安らぎと穏やかな心のために努力します。

 

 天の御国を追い求めた人は、主イエス・キリストに辿り着きます。主イエス・キリストに、真理を見出し、神の御子イエスの名によって誓い(バプテスマ)を立てると、神の賜物である御霊を受けます。

 

 御霊によって新しく生まれる人は、輝く世界を見ます。そして、この世の理の中に隠されていた神の摂理を慕い、御霊とともに歩むことで、御霊の新しい創造を受けます。御霊を宿し、御霊に創造される人の霊は、神の国に入ります。神を喜び、愛し、礼拝する、新しい人となるのです。

 

 生まれながらの人間と、御霊によって造り変えられた人とは、全く別の生き方をします。血肉の生き方と、霊の生き方です。

 

 御霊の新しい創造の人は、天上の喜びを味わいます。

 生まれながらの人間は地に属する人で、御霊のことが理解できません。