ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

福音を聞く耳

 

 「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。

 蒔いている時、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。

 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。

 また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。

 別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。

 耳のある者は聞きなさい。」(マタイ13:3-9)

 

 イエスはこのたとえを弟子たちに教えられました。

 「御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪っていきます。道ばたに蒔かれるとは、このような人です。

 また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまづいてしまいます。

 また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。

 ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人は本当に実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」(マタイ13:19-23)

 

 聖書のことばは、イエスを証言しています。イエスのことばは、天の御国を証言しています。イエスのことばを受け入れる者は、天の御国のみことばを受け入れる者です。

 

 同じように、キリストの福音を聞いても、聞く者によって、結果が異なります。福音が実を結ぶのではなく、聞いた者の受け取り方によって、実を結んだり、実を結ばなかったりします。同じ福音の種を蒔いても、受け取る土壌の環境によって、種の生長に違いが出て来るのです。どんなに良い種でも、劣悪な環境では育ちません。福音のことばに力があっても、心の土壌が荒れていれば、実を結ぶのが困難です。

 

 イエスのことば、キリストの福音を聞いても、悟らないと、悪魔の言葉を持つ者が近づいて来て、疑いを持たせて、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。それで、その人は真理を留めて置くことができません。道ばたに落ちた種は、鳥が来て食べてしまうのです。

 

 イエスは言われます。「聞く耳のある者は聞きなさい。」聞く耳の無い者は、歯向かって来ます。

 

 心の硬い人は、良い知らせだと言って、すぐに喜んで受け入れますが、自分のうちに従順で柔らかな土の部分が少なくてそれを実行する根がないため、世の迫害やみことばに敵対する者たちの反対が起こると、すぐにつまづいてしまい、真理を手放してしまいます。土の薄い岩地に落ちた種は、すぐに芽を出す(すぐに信じる)が、福音のみことばの歩みに入ると、根がないために枯れてしまいます。

 

 この世と縁の切れない人は、みことばを喜ぶが、この世の心づかいと富の惑わしに誘惑されて、実を結びません。天の御国を消すこの世も彼の友であり、彼の心は、多くのもので詰まっているからです。生まれながらの性質のままで福音を受け入れる者です。彼は、自分がいばらの中にいることに気づきません。

 

 イエスのことばに耳を傾ける者は、聞く耳のある者です。そして、それを悟る者は、キリストの福音を受け入れる者、信じる者、信じて実行する者であり、彼らは実(義の実である永遠のいのち)を結びます。真理を悟る心の者が、福音の種を育てる良い地なのです。

 

 これは、人に強制されて実現するものではありません。福音のことばを聞く者の心の状態が、種を受け、育てるのです。

 

 以前はまったく無関心であったかも知れません。柔らかな心がなかったかも知れません。この世のことでがんじがらめになっていたのかも知れません。しかし、それは過去の事です。

 

 様々な苦難を通して、救いを求めるに至ったかも知れません。多くの挫折を体験して心砕かれたのかも知れません。信じていたものに裏切られこの世のものに落胆したのかも知れません。失敗して自分に失望したのかも知れません。

 

 彼らは、福音のことばを聞いて、悟る者となるのでしょうか。心へりくだって、目に見えないけれども生きて働いておられる神に降参し、救いを求める者となるならば、神は憐れむお方です。

 

 神の救いを実現するキリストの福音のことばは、すでに用意されています。あとは、その福音をどのような心持ちで受け取るか、人の側の問題です。

 

 「耳のある者は聞きなさい。」福音を聞く耳は、たくさんあるでしょう。悟る者だけに語られるわけではありません。

 

 イエスがたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることをしないからです。(マタイ13:13)

 

 悟って弟子となる者は、天の御国の奥義を知ることが許されていますが、悟らない者には、天の御国の奥義を知ることが許されていないのです。(マタイ13:11)

 

 福音を聞き、悟る人は幸いです。その人の目は神の栄光を見、その人の耳は神の奥義を聞くのです。

 

 キリストの訪れを預言し、神の御子の栄光を預言していた多くの預言者や義人たちが、見たいと切に願ったのに見られず、聞きたいと切に願ったのに聞けなかったことを、神の御子イエス・キリストの弟子たちは、自分の目で見、自分の耳で直接神の御子イエスから聞いたのです。

 

 そして、それから約二千年経った現代人は、キリストの御霊によって、当時の弟子たちと同じ主イエスを見、主キリストのことばを聞いているのです。