ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

東方の賢者の贈り物

 

 東方から星に導かれ、「ユダヤ人の王」の誕生を祝いに、ベツレヘムの町にやって来た賢者たち。

 

 彼らは、家に入り、母マリアとともにおられる幼子イエスを見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。(マタイ2:11)

 

 賢者たちは先人の意思を受け継いで、「ユダヤ人の王」なる方の誕生を待ち望んで来たのでしょう。数百年と待ち望む中で、ユダヤ人の王にお献げする宝として、黄金と乳香と没薬を蓄えていたのでしょう。

 

 聖書を持たない賢者たちに、神は、ユダヤ人の王の誕生と、彼による悟りの完成と救いを示しておられたのでしょう。

 

 贈り物は神から出たものでした。賢者たちはそれとは知らずに、神の望まれる物を用意していました。あるいは、理解していたのかも知れません。黄金は、永遠のいのちの象徴です。乳香は、病の癒しの象徴です。没薬は、死の象徴です。まさに、救い主キリスト・イエスの来られた人生の目的を象徴するものでした。

 

 ユダヤ人の王は永遠に生きる方であり、永遠のいのちに導くお方です。死の苦しみから救い出してくださる方です。

 

 ユダヤ人の王は、すべての病を癒し、捕らわれの身の苦しみから解放してくださる方です。

 

 ユダヤ人の王は、人々の罪の呪いのために、自らの死をもって、死の呪いを打ち砕いてくださる方です。悪魔を踏み砕き、悪から解放し、死と滅びから救い出してくださる方です。

 

 東方の賢者たちが待ち望んだ「ユダヤ人の王」は、生老病死の悩みを解決してくださる、完成された完全な人であり、永遠のいのちに導く悟りの人なのです。

 

 明けの明星がやって来られました。世の苦しみ、生きることの苦しみの世界に、永遠の希望の光が投じられたのです。生きることの喜び、楽しみを見出させてくださるはずです。いえ、与えてくださる方なのです。

 

 東方の賢者たちは、エルサレムに行き、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」と言いました。(マタイ2:2)

 

 賢者たちは星を見て、「ユダヤ人の王」がお生まれになったことを知りました。彼らは、天に輝く明けの明星を見て、エルサレムにやって来たのでした。明けの明星は、「ユダヤ人の王」がお生まれになったしるしだったのです。

 

 彼らは、「ユダヤ人の王」の生誕を待ち望んでいた賢者です。東方で彼の誕生を喜ぶだけではなく、「ユダヤ人の王」を拝むために、贈り物を持って、長旅をして、幼子イエスのもとにやって来た賢者です。

 

 ユダヤ人の王は、幼子です。賢者たちをねぎらうこともできません。また、ユダヤ人の王として、賢者たちが望むような悟りを聞かせることもできません。ユダヤ人の王としてのしるしのない、ナザレの大工ヨセフのせがれです。

 

 しかし、賢者たちには、はっきりとわかっていたのです。この幼子が明けの明星であることを。

 

 民族あげてメシアを待ち望んでいたユダヤ人でしたが、救い主キリストの生誕を星によって知る人はいなかったようです。

 

 イエスが生まれ飼い葉おけに寝ていたとき、御使いから、「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」と告げられた羊飼いたちが、飼い葉おけに寝ておられるみどりごを捜し当てて、この不思議な出来事を語りました。

 

 これらの話を聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚きました。驚いたのであって、飼い葉おけに寝ておられるみどりごにひれ伏したわけではありません。

 

 羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神を崇め、賛美しながら帰りました。彼らは、イスラエルの神を崇めたのです。みどりごを拝んだのではなく、救い主であるみどりごをお与えになった神を崇めました。

 

 ヨセフとマリアは幼子を献げるために、エルサレムに連れて行きました。そのところに、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた、シメオンがいました。シメオンは、正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた人で、彼の上に聖霊が留まっておられたのです。

 

 シメオンが御霊に感じて宮に入ると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために入って来ました。すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神を褒めたたえて言いました。

 「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。

 御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」(マタイ2:25-32)

 

 シメオンは、幼子イエスに御救いを見たのです。イエスの奇蹟やしるしの体験も、贖いの子羊の十字架のわざも、死からの復活も見ていないシメオンが、御霊によって、御救いを悟ったのです。

 

 また、この幼子は、イスラエルを慰めるだけではなくて、異邦人も含む万民の前に備えられた御救いであり、神を知らない異邦人にも啓示を与える希望の光となること、そして、そのことは他民族に卑しめられるイスラエルの誉れとなり、ユダヤ民族が神の民であることが証される、御民イスラエルの光栄となることを語って、神を褒めたたえました。

 

 父ヨセフと母マリアは、幼子イエスについて語られることに驚きました。彼らは、聖霊が上に留まっているシメオンのようには、幼子のことを理解していなかったようです。

 

 また、宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた、やもめの女預言者アンナもそこにいました。彼女は、神に感謝を献げ、そして、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々(ユダヤ人)に、この幼子のことを語りました。(マタイ2:36-38)

 

 幼子イエスが主キリストであることを悟ったユダヤ人は、羊飼いたちも、シメオンも、アンナも神に感謝し、神を褒めたたえました。

 

 東方から来た賢者たちは、贈り物をもって幼子のところまで長旅をしてやって来て、幼子に贈り物を献げ、「ユダヤ人の王」である幼子イエスをひれ伏して拝んだのでした。

 

 神の約束を知るユダヤ人たちは、救い主を遣わしてくださった神を褒めたたえました。神のひとり子の存在を知らないユダヤ人たちは、父なる神に感謝しました。

 

 聖書も神も知らない異邦人は、ユダヤ人の王としてお生まれになった幼子イエスにひれ伏し拝みました。その手には、「ユダヤ人の王」としてお生まれになった幼子への贈り物があったのでした。