ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

闇から這い出せ イエスの名で

 

 パウロが、アテネの人々に言った言葉です。

 「私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に。』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。

 この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。

 神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。

 これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見出すこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。

 私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である。』と言ったとおりです。」(使徒17:23-28)

 

 心に悩みを抱える人も、悲しみや嘆きの中にいる人も、四面楚歌の状況にいる人も、悩みを打ち明ける人のいない人も、心病む人も、失望の中にうなだれている人も、孤独の闇に絶望する人も、だれでも、イエスの名をつぶやいてください。

 

 信仰がなくてもよいです。イエスの名を呼んでください。神は、人類に、救う者の名(御子イエスの名)を与えられました。イエス・キリストの名は、神に助けを求める時に、神を振り向かせる名です。

 

 異教徒であっても、無神論者であっても、関係ありません。イエスの名は、いのちをお与えになった神に届きます。イエスの名で祈る内容を聞かれる神は、この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神です。この神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方です。

 

 すべての人は、この神によって、それぞれに決められた時代と、国の中、家庭の中に生まれて来たのです。このことは、神を求めさせるための神の御配慮なのです。どうしようもない魂のうめきの中で、助けを求め、救いを探り求めることでもあるなら、天地の主である神を見出すこともあるのです。

 

 ユダヤ人だけが神に造られたのではありません。すべての人は、神の中に生き、動き、存在するものであり、神の息を吹き込まれたアダムとエバの血を引く子孫なのです。

 

 人はそれぞれ、信じるものを呼び求めます。また、名もわからない神に向かって祈ります。それぞれが信じる宗教の中に入っても、なお闇の孤独から抜け出せないでいるかも知れません。「神なんていない。」と無神論者を装っても、魂は助けてほしいと叫び続けている人もいるのかも知れません。

 

 神は、すべての人に、救いの御名として、神が遣わされた救い主、イエス・キリストの名を与えておられます。

 

 映画の中で、窮地に陥った人が、「スーパーマン」の名前を呼ぶように、また、アニメの中で、「アンパンマン」の名前を呼ぶように、いのちと息をお与えになった神が、息ある者に、助け救う名前としてお与えくださったのが、「イエス・キリスト」の名です。

 

 「ヨハネがイエスに言った。『先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。』

 しかし、イエスは言われた。『やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行ないながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。

 わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。』」(マルコ9:38-40 )

 

 イエスの名によれば、イエスの弟子で無くても神のわざを行なう力があるようです。イエス・キリストの御名に力があるからです。悪魔は、イエスの名を恐れ、震え上がっています。神が、イエスの御名に権威を与えておられるからです。

 

 イエス・キリストを主と告白していない人でも、イエスの名を呼んでみてください。異教徒でも、無神論者でも、イエス・キリストの名を呼ぶことは、万物を造られた神の御子の名を呼んでいるのです。イエスの名に力があるのです。

 

 イエスの名を呼ぶことで、天地の主のもとにその祈りは届くのです。

 

 「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金の無い者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、葡萄酒と乳を買え。」(イザヤ55:1)

 

 イエスが与える水は、いのちの水です。魂の渇きを潤し、永遠のいのちと信仰と希望を与える水です。闇から救い出し、希望と安らぎを与える、いのちの水です。いのちと息をお与えになった神が与えられる水です。人はそれを、代価を払わないで、飲むことができるのです。

 

 イエスは言われます。

 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば魂に安らぎが来ます。

 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28-30)

 

 イエスはこの世の支配者とは違います。人の負えない重荷は与えられません。イエスは、人をひとりひとり個別によく知っておられる方です。その人にふさわしい荷を負うことで、魂は安らぎを得ます。

 

 「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神御自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」(ペテロⅠ 5:10)

 

 今ある苦しみは、信仰を与えるためであるのかもしれません。

 

 「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたを心配してくださるからです。」(ペテロⅠ 5:7)

 

 「愛する者よ。あなたが、魂に幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」(ヨハネⅢ 2)