ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

子を知らないユダヤ人

 

 ユダヤ人は、天地万物を造られた全能の神と契約を結ぶ、唯一の民族、神の民です。神が御自分の民として造り、御自身のひとり子を世に遣わすために、選ばれた民です。死にゆく人々に、永遠のいのちを与えるために地上に遣わすキリスト救世主を生むために造られた民族です。

 

 彼らは、自分たちを選民だと思っています。神に召された聖なる民族であるという、自覚をもっていました。しかし、離散とともに、世界中の国々で在留異国人となり、迫害され、苦しめられることで、ある者たちは、自分たちがユダヤ人であることを呪いました。

 

 神の選民という自負は砕かれ、ユダヤ人であることを隠します。多くの苦しみを伴うこの民族は、選民であるがゆえの苦しみにうめきました。神に選ばれていることに、何の意味があるのか。自分たちが選民であることを呪う者も現われます。

 

 彼らは、ユダヤ民族を選ばれた全能の神がイスラエルに遣わされた神御自身のひとり子を信じませんでした。神は、ひとり子を罪の贖いの神の子羊として、イスラエルに与えられたのです。

 

 ユダヤ人たちは、恐ろしい裁きのことを語るイエスを憎みました。イエスのことばは、祭司や律法学者や長老たちの胸に刺さりました。耳を塞ぎたくなるようなことばです。彼らは平常心を保つために、イエスを拒みました。

 

 イエスのことばは、混ぜ物のない真理のことばでした。祭司たちが仕えている神のことばなのです。しかし、神のことばに混ぜ物をしてきた彼らは、純粋な神のことばを受けつけることができなくなっていました。

 

 正しく神のことばを教えられていない民衆は、祭司や律法学者やパリサイ人たちが語る言葉に従っていました。祭司たちの言葉に背くことは、ユダヤ人のコミュニティーから排除されることを意味しています。そんな生きづらいことを選択する人はいません。

 

 人の教えを慣習として来たユダヤ人たちは、預言者たちのことばもモーセの律法も、形骸化したいのちのないものとなっていました。神の愛も憐れみも感じられない、規則となっていたのです。

 

 天地万物、人をも造られたいのちの根源である生けるまことの神に仕えながら、いのちのない礼拝をしていたのでした。

 

 アブラハムもダビデも神のひとり子の存在を知っており、「わが主」と呼んでいたのに、ユダヤ人たちは、イスラエルの神を祀るだけで、神のひとり子の存在を否定するのでした。彼らにとって、神はおひとりでした。イスラエルの神は、全能の神、唯一まことの神です。神に、子どもがあるなんて聞いたことがありません。

 

 イエスは、ユダヤ人たちの前で、病人を癒し、悪霊を追い出し、死人を生き返らせ、罪の赦しを宣言されました。

 

 神のひとり子の存在を否定する祭司たちは、罪の赦しを宣言するイエスは何者なのかと怪しみました。何の権威でナザレ人イエスは、神の祭司のように振舞うのか。罪の赦しを宣言するのは、神から権威を与えられているレビ族の祭司の務めです。ユダ族のナザレ人がすることではありません。明らかに、神の権威に背く罪です。

 

 病人を癒したり、死人を生き返らせたり、悪霊を追い出すのを、悪霊の力を使っている、と考えました。彼らは、イエスを悪霊の仲間だと決めつけました。

 

 メシアを待ち望んでいるはずのイスラエルは、ローマの支配下にありました。ローマは、祭司たちを優遇していました。支配下であっても、民衆のような苦しみはないのです。税金を取り立てられることはありません。土地も与えられています。

 

 民衆の間では、イエスがキリストだという噂が流れていました。イエスは、祭司たちを冒瀆するような厳しいことばを語っています。イエスがメシアであっては困ります。祭司らは、イエスがキリストであることを認めようとはしませんでした。

 

 イエスが自分を「神の子である。」と言っているという証言を受けて、祭司らは、イエスを罪に定めました。神はおひとりなのに、神の子だと言って、イエスは聖なる神を冒瀆しているというものでした。神はおひとりです。神に御子が本当にいるのでしょうか。神が遣わされるメシアは、モーセやエリヤのように、神の人として来られる人のはずです。イエスは、大工の息子でナザレ人です。誰もが知っています。

 

 ユダヤ人たちは、神のひとり子の存在を知りませんでした。それで、人の子として来られた神の御子イエスを、「神の子である。」と言ったとして、神を冒瀆する罪で十字架につけたのでした。彼らが、もし、ナザレのイエスが神の御子キリストであることを知ったならば、十字架にかけることはしなかったでしょう。そうなれば、罪の贖いのわざが実現しないのです。イエスが神の御子であることは、ユダヤ人に隠されていました。

 

 神の御子、子羊イエスの贖いの血によって、罪は赦されるのです。神は、キリストによって、ユダヤ人を御自分と和解させられるのです。また、神は、キリストにあって、この世を御自分と和解させ、違反行為(神に背く罪)の責めを人々に負わせないで、和解のことば(キリストの福音)を与えられるのです。

 

 神の御子イエスの十字架の死は、主キリストを信じる者と神は和解して彼らの罪を赦し、彼らに罪の裁きを負わせず、彼らに永遠のいのちを与えるためでした。

 

 イエスが墓から甦り、復活したことは、ユダヤ人たちに、十字架につけたナザレのイエスが、主キリストであることを証しました。そのことを知ったユダヤ人たちはうろたえました。イエスの弟子たちは、悔いる彼らに正しいキリストの福音を伝えました。悔い改めたユダヤ人は、主イエス・キリストを信じて、バプテスマを受け、キリストの弟子となったのです。

 

 そこで、困るのは、祭司たちです。キリストを処刑したと民衆が知れば、暴動になります。イエスを信じるユダヤ人を迫害し、殺害しました。彼らを亡き者にしようとしたのです。祭司や人を恐れるユダヤ人たちは、イエスを否定しました。イエスを信じることは、ユダヤ人にとって、ユダヤ教徒から迫害されることを意味していました。

 

 こうして、ユダヤ人たちは、イエスの弟子たちの働きを妨害し、悔い改めるユダヤ人たちを搔き乱しました。それでも、神の御霊の働きは前進し、世界に広まっていきました。

 

 神は、祭司や律法学者たちや神の御子イエスに敵対するユダヤ人たちを怒り、ユダヤ人からイスラエルの国を取り上げ、世界に離散させられたのでした。

 

 ユダヤ人は、イエス・キリストが、神の御子であることを知りません。神のひとり子の存在を否定するからです。神のひとり子を知らない多くのユダヤ人たちは、今でも、ナザレのイエスをキリストであると信じることができません。

 

 キリストの父を、ユダヤ人の神として崇め仕えながら、彼らが仕えている神がイスラエルに遣わされた主キリストを知ることができません。ナザレのイエスが神のひとり子であることを知ることができないのです。

 

 イスラエルが「私たちの神」として信じている全能の神は、十字架につけたナザレのイエスの姿をした神のひとり子の父だったのです。ナザレのイエスは、ユダヤ民族の神が、イスラエルに遣わされた、贖いの神の子羊だったのです。

 

 神の子羊は、ユダヤ民族の罪を贖うために血を流された、神のひとり子なのです。