ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神の贈り物を拒んだ祭司たち

 

 律法の慣習を守るために、生まれた幼子イエスを連れて宮に来たヨセフとマリアを見ると、救い主を待ち望んでいたシメオンは、幼子イエスを腕に抱き、神を褒めたたえた。

  また、シメオンは両親を祝福し、母マリアに言った。『ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。

 剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです。』」(ルカ2:34,35)

 

 神は、処女マリアの胎から生まれた神の御子イエスを、神の民ユダヤ民族の試みとされました。神が遣わされたキリストを皆が歓迎するわけではないのです。ある者たちは、御子イエスを拒み憎むことで神の民から取り除かれます。ある者たちは、敵対者の間で立ち上がり、神の御子イエスの弟子として堅く立ちます。また、ユダヤ人たちに迫害され、反対を受けるしるしとして定められています。

 

 母マリアは、イエスがユダヤ人たちから受ける苦難を見て、心は剣を刺し通されたように痛み苦しむことでしょう。それは、イエスが悪者だからではありません。イエスが罪人だからではありません。ユダヤ人たちの心の闇が現れるためです。多くの人の、神を神としない心の有様が明らかにされるからです。まことの神に仕える神の民ユダヤ人の心が、神から遠くに離れていることが明らかになるからです。

 

 「聞け。ラマで聞こえる。苦しみの嘆きと泣き声が。ラケルがその子らのために泣いている。慰められることを拒んで。子らがいなくなったので、その子らのために泣いている。」(エレミヤ31:15)

 

 ベツレヘムとベツレヘム近辺の幼子の母らは、殺された子どものために泣き、嘆き悲しみました。ヘロデが、キリストの出現を恐れ、幼子イエスを殺そうとして、ベツレヘムとベツレヘム近辺の二歳以下の男の子を皆殺しにしたからです。

 

 ユダヤ人たちは、子を失う母の痛みを味わいました。ピカソの絵画ゲルニカに描かれている雄牛のような姿の父なる神に向かって、死んだ子どもを抱えて泣き叫ぶ母親の姿を思い浮かべます。この女は、ユダヤ民族のようです。子どもを失った母親は苦しみあえぐのです。

 

 しかし、その女のすぐ前には、手に傷痕のあるひとりの男が横たわっています。その右手には、刃の折れた剣と一輪の花があります。この人は、戦いを終わらせ平和を与えてくださるキリスト、十字架で死なれた神のひとり子イエスのようです。

 

 ユダヤ人の母たちは、自称クリスチャンや反ユダヤ主義者に子どもを殺されて、神に泣き叫びました。

 

 しかし、神もまた、ユダヤ人たちの手で呪い殺された、御自分のひとり子イエス・キリストの死を体験されているです。彼女らが嘆き悲しむ痛みをよくご存じなのです。

 

 イエスは、ユダヤ人の民衆にたとえを話されました。

 「ある人がぶどう園を造り、それを農夫たちに化して、長い旅に出た。そして季節になったので、ぶどう園の収穫の分け前をもらうために、農夫たちのところへひとりのしもべを遣わした。ところが、農夫たちは、そのしもべを袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。

 そこで、別のしもべを遣わしたが、彼らは、そのしもべも袋だたきにし、はずかしめた上で、何も持たせないで送り帰した。

 彼はさらに三人目のしもべをやったが、彼らは、このしもべにも傷を負わせて追い出した。

 ぶどう園の主人は言った。『どうしたものか。よし、愛する息子を送ろう。彼らも、この子はたぶん敬ってくれるだろう。』

 ところが、農夫たちはその息子を見て、議論しながら言った。『あれは跡取りだ。あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』

 そして、彼をぶどう園の外に追い出して、殺してしまった。こうなると、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。

 彼は戻って来て、この農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。」

 

 これを聞いた民衆は、「そんなことがあってはなりません。」と言った。(ルカ20:9-16)

 

 イエスは、詩編118:22のことばを言われました。

 「家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。」

 

 神は、イスラエルに預言者を遣わされました。王と民は、預言者の語る神のことばを憎みました。預言者たちにはずかしめを与え、殺しました。とうとう、神は、御自分のひとり子を遣わされました。

 

 「どうしたものか。よし、愛する息子を送ろう。彼らも、この子はたぶん敬ってくれるだろう。」しかし、祭司たちは、神の御子といわれるナザレのイエスを信じません。それどころか、神のことばを真っ直ぐに語るイエスを憎みました。祭司たちは真理を求めず、自分たちの立場に固執しました。もし、イエスを主として受け入れるならば、ユダヤ人の民衆の中で、敬われる祭司の立場を失います。祭司たちの教えではなく、イエスの教えが民を導くことになります。

 

 「祭司長とパリサイ人たちは議会を召集して言った。

 『われわれは何をしているのか。あの人(イエス)が多くのしるしを行なっているというのに。もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。』

 しかし、彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。

 『あなたがたは全然何もわかっていない。ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。』(ヨハネ11:47-50)

 

 すべてのユダヤ人がイエスに従うならば、ユダヤ人の王とそれに従うユダヤ民族をローマ帝国のカイザルが放っておきません。国民全体がローマ帝国の敵となるのです。ユダヤ民族が滅ぶことよりも、「ユダヤ人の王」ひとりを殺して、ユダヤ民族が滅びないほうが得策だと考えたのです。

 

 聖書には、「カヤパの言葉は彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。そこで彼らは、その日から、イエスを殺すための計画を立てた。」(ヨハネ11:51-53)とあります。

 

 ユダヤ人たちが「私たちの父」と呼んでいるアブラハムは、神に命じられて、ひとり子イサクを神に全焼の生贄として献げるほどの信仰がありました。神の使いは、天からアブラハムを呼んで、仰せられた。

 「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫(キリスト)は、その敵の門を勝ち取るであろう。

 あなたの子孫(主キリスト)によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」(創世記22:16-18)

 

 ひとり子イサクを献げる決意をしたアブラハムのことを、ひとり子イエスを罪の生贄として人に与えた神が、「わたしの友」と呼ばれました。

 

 神の友アブラハムの子イサクの子孫(ユダヤ人)もまた、神のひとり子イエス・キリストのゆえに、自分たちの子どもを殺される苦しみを味わい、神の友の子孫となるのでした。

 

 こうして、神は、御自分の瞳のように、ユダヤ人を守られるのです。

 神は言っておられます。

 「あなたがた(ユダヤ人)に触れる者は、わたしの瞳に触れる者だ。」(ゼカリヤ2:8)