ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

いのちの木の枝

 

 エデンの園に守られていたいのちの木。いのちの木の実を食べる者は、永遠に生きるのです。

 

 最初の人アダムとエバが、神に禁じられていた善悪を知る知識の木の実を食べると、神は仰せられました。

 「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」

 

 神を仰がないで、神のような知恵を持ち、自分で判断し、自分が主人となって生きたいというのは、神に反逆し、神の御子に敵対する悪魔の考えです。

 

 神が治められる、永遠の昔からある光の世界では、すべてのものは、神のことばに服し、秩序正しく全き調和がありました。痛みも苦しみも悲しみも嘆きもありません。すべてのものは、神にあってひとつであり、平和があったのです。

 

 しかし、天使長ルシファーに妬みの闇が芽生え、闇は光から追放されました。天使には肉体がありません。霊的存在です。霊は朽ちることがありません。それで、天使長ルシファーは、闇の王、悪魔となってからでも永遠に生きるのです。

 

 神に敵対する悪魔は、神に戦いを挑んでいました。神の天使らの働きを妨害したり、神が造られた被造物を見当違いの役立たずに陥れたりします。

 

 神が御子のために造られた「人」は格好の餌食です。最初の人を言葉巧みに騙し、神から引き離すことに成功しました。悪魔の言葉に従った彼らの報酬は死でした。彼らから生まれる人を騙すのは、もっと容易いです。肉体のある人間は、いのちに限りがあります。天使や悪魔のように、生き続けるわけではありません。人間は、生まれ落ちた時から死が定まっているのです。

 

 神は、悪魔を滅ぼし、死んだ人を取り戻すために、御自分のひとり子を地に遣わされました。彼は、人を悪魔と死から救い出す、救い主、主キリストです。

 

 神はアブラハムを選び、アブラハムの子イサクを選び、イサクの子ヤコブを選んで、イスラエルを造られました。ヤコブの十二人の息子の子孫、ユダヤ民族です。ヤコブの子らは、奴隷の家エジプトで増え広がって、ユダヤ民族という民族に成長しました。神は、モーセを立て、この民を奴隷の家から連れ上りました。ユダヤ民族は、荒野を行き、神が彼らに与えたカナンの地に導き上ったのです。

 

 神はこの民族を、御自身のために造られました。ユダヤ民族は、神の民でした。神は、世の始まりから終わりまでを彼らに知らせ、聖書をお与えになりました。聖書は、彼らが天地万物を造られた神の民であることを証しました。

 

 彼らは、民族あげて、神の戒めを守り、神の祭りを祝い、生けるまことの神に仕えました。彼らは、祭司の国民です。祭司の民族が置かれた世界は、ノアの時代とは異なります。

 

 世界には、全能の神と契約を結ぶ祭司の民族が置かれているのです。神の祭司が世にいる限り、世が滅びることはありません。ユダヤ民族は、神の契約に基づいて存在することが定められているからです。多くの民族国民は、神を神とせず暴虐に満ちた世であっても、神の祭司ユダヤ民族の存在によって、神の滅す御手から守られているのです。

 

 神は、契約の民ユダヤ民族に、御自分のひとり子を遣わされました。ユダヤ人から生まれた主キリストです。

 神と契約を結んだアブラハムも、イサクも、ヤコブも、ユダヤ民族のものです。モーセも預言者たちも彼らのものです。ダビデもユダヤ人です。主キリストを胎に宿し産んだマリアもユダヤ人です。そして、神のひとり子、主イエス・キリストも、ユダヤ人としてお生まれになりました。

 

 神のひとり子は、ユダヤ人として生まれ、神の祭司たちに屠られた、罪の生贄の子羊イエスです。子羊イエスの贖いの血は、ユダヤ人の罪を贖い、罪を赦し、義としました。ただし、子羊イエスの贖いの血を信仰によって受けなければなりません。

 

 ユダヤ民族が、奴隷の家エジプトから出たときの過越しのように、羊の血で救われるのです。羊の血を塗った家の中にいたユダヤ人は無事でした。しかし、羊の血のしるしのないエジプト人の家の初子はみな神の使いに打たれて死にました。ユダヤ人だから、さばきが過ぎ越されたのではありません。神のことばに従って、羊の血を門と鴨居に塗ったので、御使いはその羊の血を見て、さばきを過ぎ越したのでした。ユダヤ人であっても血の塗られた家の外にいたならば、さばきの対象となるのです。

 

 神は、地上に、いのちの木を植えられました。永遠に生きるいのちの実をみのらす木です。それは、神が定めた神の都エルサレムに植えられました。根はイスラエルです。神とユダヤ民族との契約が土壌であり、その契約を守って来たユダヤ民族が木の根です。

 

 イエス・キリストは、契約を守るユダヤ人からお生まれになりました。イエスとイエスの弟子たちは、ユダヤ教の一派ナザレ派と言われていました。イエスは、ユダヤの会堂に入り、聖書の朗読をされています。使徒たちの頃にユダヤ人たちに迫害され、ユダヤの会堂から締め出されて、ユダヤ教から異端とされたのです。

 

 イエス・キリストは、キリスト教の教祖ではなく、ユダヤ民族の神が遣わされた神のひとり子です。ユダヤ民族の神から出た救い主です。ユダヤ民族に彼らの神(父なる神)を教え、彼らの神の契約の成就のために来られたのです。

 

 神は、神の民ユダヤ民族との契約を、神の子羊イエスによって実現せられたのです。主イエスは、キリスト教の教祖ではありません。イエスは、ご自身の教えを広めるために来られたのではありません。ユダヤ民族との契約の成就として来られたのです。主イエスは、神とユダヤ民族との契約の上に立ついのちの木です。イスラエルに置かれたいのちの木です。

 

 神の子羊イエスの贖いの血を受けた者は、イエスを主キリストと告白する者です。イエス・キリストを信じる者は、このいのちの木につぎ合わされる枝です。永遠のいのちを受けるばかりか、いのちの木(イエス・キリスト)につがれて、御霊の実を結ぶいのちの木の枝となるのです。

 

 枝は、幹(イエス・キリスト)を通して、根(神と契約を結ぶイスラエルの信仰)の養分を受けて、実を結びます。

 

 イスラエルから切り離された枝は、根の無い切り花のように、花は咲かせるが実を結ぶことはありません。実を結ばない枝は、剪定されます。イスラエル、ユダヤ人を憎む者は、いのちの木の枝ではありません。

 

 キリスト教徒は、ユダヤ民族の恩恵を受けているのです。ユダヤ民族の契約と信仰の上に主キリストは立っておられるのです。この土台は揺らぐことがありません。

 

 イエス・キリストの木に接がれた枝の異邦人は、ユダヤ人に対して高ぶってはなりません。また、ユダヤ人は、イエス・キリストの民である異邦人を蔑んではなりません。

 

 異邦人もユダヤ人も、主イエス・キリストによっていのちの木に接がれ、ひとつのものとされるのです。ユダヤ人も異邦人もありません。ただ、永遠に生きる主イエス・キリストがおられるだけです。いのちの木の枝は、いのちの木の一部分。キリストのからだの一部分だからです。