ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神の命令は神との契約

 

 神である主は、塵から人を造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれ、人は、生きものとなった。神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主のかたちに造った人を置かれた。(創世記2:7,8)

 

 神である主は、最初の人アダムに命じられました。

 「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」

 

 人は神の奴隷ではなく、自由意志を持つしもべとして造られていました。神のことばに聞き従う忠実なしもべであることが期待されていたのです。

 

 神は人が死なないために、善悪の知識の木の実を食べることを禁じられました。善悪の知識の木の実の実は、神と断絶させ、神から引き離す悪魔の奴隷を生む食べ物です。神の御霊を締め出す死の食べ物です。

 

 神は塵から造った人にいのちの息を吹き込んで生きるものとされました。人は神のいのちの息によって生きるものです。いのちの息によって生かされるものです。いのちの息が吹き込まれていないうちは、ただの人形のようでした。いのちのない塵の造物だったのです。

 

 このいのちの息が取り去られるならば、もとの動かない塵の造物になります。それは、いのちのない状態です。

 

 神は、「善悪の知識の木の実を食べるとき、必ず、死ぬ。」と仰せられました。これは、神の人への命令であり、人を生かし続けるための神の契約だったのです。神の命令に聞き従わないで善悪の知識の木の実を食べるとき、必ず、死ぬのです。しかし、神の命令に聞き従って善悪の知識の木の実を食べなければ、生き続けるのです。

 

 神の守りは、神の命令、神のことばにありました。神のことばのうちに、人の祝福、永遠のいのちが置かれていました。

 

 主である神に敵対する悪魔は、神のことばに逆らう者でした。悪魔は、神よりも高くなって、神をも支配したいと思う反逆者です。しかし、悪魔には創造する力も、いのちも、いのちを与える力もありません。悪魔には、破壊と死があるだけです。しかも、神の許しがなければ、悪魔は何もできないのです。

 

 人は、善悪の木の実を食べてはならないことを知っていました。悪魔は、神から直接命令を受けたアダムではなく、アダムのあとに造られ、アダムから神の命令を聞いているエバに語りかけます。

 

 「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、本当に言われたのですか。」直球ではなく、変化球を用いて、エバの心を引き寄せました。「善悪の知識の木の実を食べてはならない、と神は、本当に言われたのですか。」とは尋ねませんでした。

 

 エバは答えます。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せられました。」

 

 善悪の知識の木の実を食べてはならないことを強調して、触れてもならない、と言ってしまったエバです。そのあとで、神のことばを厳しく表現したことに気づいたのか、「あなたがたが死ぬといけないからだ。」とやんわりとさせました。

 

 蛇と話しながら、園のどの木からでも思いのまま食べてよいのに、どうして善悪の知識の木は食べてはならないのかと、その時ちょっと思ったのかも知れません。

 

 蛇は言います。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを知っているのです。」

 

 エバは、蛇から、善悪の知識の木の実を食べても死なないという情報を得ました。また、善悪の知識の木は、善悪を知る知識を得させる木であり、神のようになることを知りました。エバはその実を取って食べました。エバの様子を見ても、何ら変化がありません。見ていたアダムも、死なないことを信じて、神に禁じられていた善悪を知る知識の木の実を食べました。そのとき、人は、神から離れ、死ぬ者となったのです。神の知識を失い、悪魔の知識を受けました。いのちの光を失い、死の闇を受けたのでした。

 

 アダムから聞いていたエバが食べても変化のなかった人が、神から命令を受けたアダムが食べると、神の契約どおりに、死んだ者となりました。それで、アダムの子孫はみな、死ぬのです。神の命令、神のことばに聞き従わないことが罪です。罪とは、的が外れたこと、本来あるべき状態から外れたことを言います。

 

 「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23)すべての人が死んでいくということは、すべての人は神に罪を犯した罪人である、ということです。死んでいくことによって、人は罪人であることを、自ら証しているのです。罪がなければ、死もないのです。

 

 生きたまま天に引き上げられたエノクと、預言者エリヤがいます。彼らは、神に正しい者として認められていました。彼らは、神とともに歩んだのです。彼らは、自分の正しさの中で生きたのであって、他の人々をも、死の無い正しい者にする力はありません。

 

 神は、エデンの園から追い出したアダムに、セツを与えられました。それで、アダムは、アダムに似た、アダムのかたちどおりのセツを生みました。

 

 セツの子孫としてエノクが生まれ、エノクの子孫としてノアが生まれ、ノアの子孫としてアブラハムが生まれ、アブラハムの子孫にヤコブが生まれました。そして、神は、ヤコブの子らをユダヤ民族とされました。神である主は、モーセを通して、ユダヤ民族と契約を結ばれました。こうして、神の民イスラエルは造られました。エリヤは、イスラエルの預言者でした。

 

 神は、モーセによってイスラエルに語られました。

 「見よ。私は、きょう、あなたがたの前に、祝福と呪いを置く。もし、私が、きょう、あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従うなら、祝福を、もし、あなたがたの神、主の命令に聞き従わず、私が、きょう、あなたがたに命じる道から離れ、あなたがたの知らなかったほかの神々に従っていくなら、呪いを与える。」(申命記11:26-28)

 

 神のことばに従うならば、いのちを、神のことばに従わないならば、死を、アダムの前に置かれた主が、御自分の民イスラエルの前にも、祝福と呪いを置かれました。

 

 アダムに命じられた全知全能の神が、イスラエルにも命じられたのです。アダムのつまずきにより、被造物全体が罪と死の呪いの中に入ったように、神に命令を受けたイスラエル民族が神の命令に聞き従わなければ、被造物全体は罪の呪いの中に留まるのです。ユダヤ民族が主キリストを信じて、イエスのことばに聞き従い、永遠のいのちを受ける者となるように、祈らなければなりません。

 

 ペテロは死から甦られた主キリスト・イエスについて、ユダヤ人たちに言っています。

 「モーセはこう言いました。『神である主は、あなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。この方があなたがたに語ることはみな聞きなさい。その預言者に聞き従わない者はだれでも、民の中から滅ぼし絶やされる。」(使徒3:22,23)

 

 神の新しい命令は、「神が遣わされた神のひとり子イエス・キリストのことばに聞き従いなさい。主キリストに聞き従わない者はだれでも、神と契約を結ぶユダヤ人であっても滅ぼし絶やされる。」というものなのです。

 なぜならば、主キリスト・イエスこそがモーセがイスラエルに命じていた、聞き従わなければならない預言者であり、滅ぼす権威のある裁き主であるからです。

 

 「イエスのことばに聞き従わなければならない。」との命令は、神と人との契約です。聞き従う者は、死から甦って永遠のいのちを得、聞き従わない者は、死人のまま永遠の滅びに定まっているからです。

 

 神の子羊イエスは、生きたまま天に引き上げられたエノクやエリヤとは異なります。イエスは、すべての人の罪を贖うための神の子羊です。キリストの血は、罪を贖い、イエスの死は、多くの人を生かすのです。神の子羊イエスの生かす血は、死んでも甦り、永遠に生きるいのちを与えるのです。

 

 アダムが人に死を与えたように、神のひとり子イエスは、罪に死んだ人を死から救い出して永遠のいのちを与えるのです。

 

 神の命令は、永遠のいのちのためであり、神との契約「神の子羊イエスのことばに聞き従うならば、永遠に生きる。」は、確かで信ずべきものなのです。