ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

自由意志

 

 「われわれ(父なる神、子なる神、聖霊なる神)に似るように、われわれ(御父、御子、御霊)のかたちに、人を造ろう。」(創世記1:26)

 

 三位一体の神、三つにしてひとつの神は、こう仰せられて、人を造られました。人は神のかたちに造られました。

 

 人は、交わりを持ち、他の被造物を愛と憐れみをもって支配するものです。人の他に、他の種のものに責任を持つものはいません。人は、人以外の生き物を支配する責任が与えられています。すべての被造物の中にあって、支配する責任が与えられているのは、人だけです。

 

 「さあ、河馬を見よ。これはあなたと並べてわたしが造ったもの。」(ヨブ40:15)とあります。河馬の部分は、巨獣とも言われており、私たちが知る河馬ではなく、恐竜のことであるかもしれません。

 

 つまり、人が特別に造られたわけではなく、他の被造物と並べて造られたものであるというのです。時間の無い悠久の時の中におられる神にとって、時系列というものはありません。過去現在未来ではなくて、すべての時が今なのです。人間の思いの中では、恐竜はずっと以前の生き物と思われますが、神には恐竜も人も並べて造ったものなのです。

 

 主キリストがイスラエルの王として来られる千年王国は、死人が甦り、アブラハムもイサクもヤコブも現代人もともに生きる世界です。昔も今もなく、すべての人は、千年の時をともに過ごすのです。千年王国では、人の寿命は樹木のように長くなり、九百三十年生きたアダムや、九百五十年生きたノアの時代のようになります。

 

 神は、人を、神に似せて造られました。神は、御父と御子と聖霊の交わりと主権を持たれるお方、ひとつの聖、ひとつの義、ひとつの愛によって、完全な一致と調和の神です。

 

 神は、人にこの愛を授け、神とひとつ心で、他の被造物を支配し、管理することを御計画されました。

 

 御使いたちは、神に仕える者です。仕える者として造られていました。しかし、人には、神のように自由意志を与えておられます。神に支配されるものではなく、神との交わりの中で、神のひとり子と良い関係を持つ者でした。

 

 神のひとり子と人とは、愛と信頼と交わりを持つ関係でした。人は、神との交わりが許された被造物だったのです。御使いは、仕える者であって、愛の交わりの中にいる者ではありません。神の愛のうちにあって、仕える者なのです。しかし、人は、神の交わりの中に招かれる唯一の被造物でした。

 

 神の交わりの中で、神の御心を知り、神の御心をともに担う者だったのです。神は、人に命じられました。

 「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それをとって食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」

 神に命じられる、という事が、人が人であるということです。

 

 イエスは、神のひとり子でありながら、父なる神が肉体を造り、人の姿で、「人の子」として、イスラエルに来られました。「人の子」となられた神の御子イエスは、父に命じられたことを語られました。父に命じられたことだけを語る、とご自分で決めておられたからです。

 

 ロボットのように、父なる神のことばを反復する者ではありません。イエスには、感情も意思も意志もあるのです。しかし、イエスは、父なる神に命じられたことだけを語り、行なうということを成し遂げられたのです。これは、イエスご自身の意志でした。

 

 自由意志を与えられた人の子イエスは、ご自分の意志で、父に従うことを決められました。そして、水のバプテスマを受けた時に天から下って来られた御霊とともに、ご自分の使命を全うされたのです。

 

 人には、自由意志が与えられています。奴隷のように隷属させる神ではありません。愛の交わりを住まいとされる神は、自分の意志で従う者たちを、その交わりの中に招かれるのです。

 

 人間が作り、あるいは導く宗教では、自由意志を否定するようなことも行なっています。神が人に与えられた尊厳(自由意志)を台無しにしています。

 

 キリスト教会では、多くの場合、強制することはありません。導くことはあっても、権力を振りかざすことはありません。洗脳して、束縛することもありません。脱出の道はいつも開いているのです。神は、自分自身の意思ではない信仰告白を信仰だとは認めておられないからです。

 

 神は、人の数を見て、御自分の栄誉や権力をはかるお方ではありません。聖書の神は、交わりを大切にされるお方です。自分の意志で、神に近づく人を望まれます。自分の意思で、神の御子イエスを信じる者、愛する者を、神の交わりに招いておられるのです。

 

 「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」(マタイ11:12)

 

 バプテスマのヨハネの証言によって、ユダヤ人たちが待ち望んでいた主キリストがイスラエルに来られたことが明らかになりました。

 

 また、イエスのことばによって、神の御国が明らかにされました。永遠に堅く立つ天の御国、真理の国の存在が民衆にも明らかにされました。天の御国は、祭司たちのものではないのです。律法の専門家たちのものでもありません。律法を守る者たちのものでもありません。

 

 「律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、だれもかれも、無理にでも、これに入ろうとします。」(ルカ16:16)

 

 神の御国の福音は、異邦人たちにも宣べ伝えられました。ユダヤ民族だけのものではありません。もう、ユダヤ人である、なしは関係ありません。イスラエルの神は、主イエス・キリストをイスラエルの王として立て、神のひとり子イエスを主とする者を、イスラエルのうちに集められます。無割礼の者たちも、神の御子イエスの信仰によって神の民イスラエルに加えられるのです。イエス・キリストは、全人類の救い主なのです。

 

 神とユダヤ民族との契約を無視する者たちも、平気で、天の御国を目指します。主イエス・キリストの御名によるならば、だれでも天の御国に入ることができるとばかりに、殺到します。

 

 主イエスへの愛も、イスラエルへの敬意も、そんなことはどうでもいいのです。自分が救われ、天国に入ることが重要です。

 

 天の御国は激しく攻め取られています。イエス・キリストの御名が乱用されています。異邦人によって、ユダヤ人たちは蹴落とされ、天の御国を激しく奪い取っています。神の契約の子ら(ユダヤ人たち)は、天の御国から締め出されています。

 

 しかし、ユダヤ人も、イエス・キリストの御名を呼べば、彼らのために用意された天の御国は開かれます。ユダヤ人の心が固くなっているのは、異邦人の救いのためです。異邦人の救いは、ユダヤ人に与えられた主キリストと神の御霊を取り戻そうと、ユダヤ人に妬みを起こさせ、ユダヤ人にも主キリストによる救いを受けさせるためです。

 

 主イエス・キリストを信じるのも、信じないのも、人の自由意志によります。信じなくて火の池で神を呪うのは正しくありません。神が、人間を焼くのではなく、その人自身が罪の贖い(主キリスト)を拒んで死に、その抱えたままの罪を焼かれるのです。だれも恨むことができません。自分の意思で選んだことの結末なのです。