ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

正しい道

 

 太陽の光のもとで、地球は光の中に置かれているように見えます。しかし、夜になると、闇の夜空に、太陽の光を鏡のように映し出す月の光が現われます。闇の中で、星々が姿を現します。

 

 地球は、闇の中に存在しているのです。太陽系銀河を出ても、そこは漆黒の闇です。天体は、闇の中にあるのです。

 

 人々は、光を求めます。いのちの希望の光です。闇の中では、吸い込まれるような恐怖と存在していることの不安を味わいます。闇の中では、存在していても、存在しないもののようです。何もないと感じるのです。

 

 何もない中で、何故、自分の意識は存在しているのでしょう。意識がなければ楽なのに、意識があるゆえに、魂はわななき、心はしおれます。

 

 人の命は、闇を恐れます。得体の知れないものが潜んでいて飛びかかって来るようです。ひとりであることが不安でしかたがありません。虫けらでも命のあるものが存在すれば安心しますが、暗闇では、見つけることもできません。

 

 今、目に見えているものは、現象です。やがて、闇の中に消えて行く、幻のような現象です。光によって見えているように見えても、やがて、存在すらしなくなるのです。

 

 この闇に置かれた地球で、人々は光を目指します。消えて見えなくなる幻ではなく、ずっと存在し続けるもの、居心地の良い安息の場所、死も別れも悲しみも痛みも苦しみもない状態に辿り着きたいのです。

 

 光を求めるのは、光の存在を知っている魂です。永遠の思いを持つ魂です。闇の子らは、闇を愛します。彼らには闇は居心地が良いのです。

 

 永遠の思いを持つ人々は、心のよりどころを光に求めます。それぞれ、出会った光に心を休ませます。しかし、その光も一時のものであることに気づいた魂は、再び、確かな光を求め始めます。彼らは、闇の世にあっても、光が存在することを信じる魂です。

 

 彼らの心は、人の優しさや愛情によって慰められるのかも知れません。あるいは、哲学で真実なものを探るのかもしれません。あるいは、宗教で、神々に至るのかも知れません。

 

 宗教の道を行く人々は、今の世とは異なる別の世界があることを信じています。この世だけでは解決できない心の平安を目指します。

 

 心の不安や恐れは、罪から来ていることを知り、心を騒がせる欲望や煩悩を、宗教に熱心になることによって、解決しようと励みます。それぞれ、導かれた宗教の中で、救いを見出すことに努力します。

 

 きっと良いに違いない。きっと光を得るに違いないと信じて、教えを受けます。水を吸い込む砂のように、教えを受けても受けても、もう十分とはなりません。渇いた心を抱えたまま、いよいよ熱心になります。魂の安らぎを求めて信じたはずですが、魂は拘束せられ、せわしなく、安らぎがありません。忙しさの中で、魂のことを忘れていられます。それで、問題がぼやかされて行き、光を求めていたことすら忘れてしまいます。

 

 地から出た教えは、光に到達できません。地球そのものが闇の中に浮かんでいるのです。闇から出た教えは、闇の教えなのです。光の存在を知らせることがあっても、光そのものを知ることはできないのです。光のことは、光に教えられなければ、本当の事はわかりません。

 

 地上から出た教えは、どう上っても、地上に続く山の頂上までです。たとい、山の頂上から上に上ったとしても、そこは闇の中なのです。地上よりも暗い漆黒の闇です。

 

 どの宗教が正しいのか、という問題ではありません。すべての宗教は、闇の中で生まれ、闇の中に留まるものなのです。光に到達できません。

 

 宗教家たちが目指している光は、永遠に輝き続ける真理の光です。しかし、漆黒の闇の中には、真理の光はない、というのが真実です。

 

 真理の光に到達するには、真理の光の教えを受けなければなりません。真理の光から地上にやって来て、真理の光に到達するための道を設けられた方がひとりいます。闇から出た人ではありません。

 

 闇は、死の世界です。人は闇の中に生まれ、闇の中に死んでゆくのです。誰も真理の光を見た事も、聞いた事も、味わった事もありませんでした。地上で、生きているように見えていますが、実は、闇(死の世界)の中で、生まれ死んでいただけでのことでした。生きていると思っていたのは、実は死んでいたのです。生きているように見えて、死を味わっているのです。

 

 真理の光から遣わされたまことの光は、闇も死もないお方です。闇の世に、真理の光が現われました。人々が初めて見る光です。この方の教えは、闇から生まれた教えとは異なっていました。真理の光の教えです。

 

 この方は、闇と死から死人を救うために来られた、救世主キリストでした。真理の光から来られたキリストにより、人は、真理を知りました。天地万物を造られた全能の神の存在を知ったのです。そして、闇を滅ぼす御計画も知りました。

 

 天体の浮かぶ漆黒の闇、すべては、滅ぼされて、消滅します。消滅するのではなくて、永遠の火の池で永遠に燃やされるというのです。

 

 闇をつくったのは、悪魔の罪でした。罪が闇をつくり、死を生んだのです。人はみな、悪魔の虜にされ、罪の呪いを受け、死と闇に閉じ込められていたのです。

 

 悪魔と死と闇とを滅ぼす権威を持つ全能者が、救い主キリストを遣わされました。悪魔の虜となっている人々を、悪魔と共に滅ぼさないためです。

 

 罪の報酬は死です。罪がなければ死はないのです。主キリストは、人の罪(死)の身代わりとなって、裁き主である全能者に御自分の血を献げられました。罪の生贄の子羊の血です。贖いの血です。

 

 裁き主は、生贄の子羊イエスの血をご覧になって、子羊イエスの贖いのわざを信じた人の罪を赦されました。全能なる神は、神のひとり子イエスの贖いの血によって罪赦された者を、主イエス・キリストのものとされました。

 

 悪魔のものではありません。悪魔の支配から救い出されたのです。神は、悪魔から救い出した魂を、闇から光に移されました。真理の光から遣わされたキリストとともに、死に勝利し、闇から救い出されて、真理の光、天の御国に引き上げられるのです。

 

 真理の光に続く道は、ただ一つです。真理の光から来られ、真理を証されて、真理の光に上らせて下さる救い主イエス・キリストが設けられた道です。

 

 人間は、多くの宗教を作り、多くの救いの名を呼びます。しかし、正しい道を歩まなければ、山頂止まりです。漆黒の闇から出ることはできません。正しい道とは、真理の光に至る道です。この世のものではありません。

 

 死も闇も悲しみも嘆きも苦しみもない、まことの自由と平安の光であり、愛と喜びと楽しみに満ちた永遠のいのちに入る道です。

 

 「わたしが道であり、真理であり、いのちです。わたしを通らなければ、誰ひとり御父(天の神)のみもとに来ることはない。」(ヨハネ14:6)

 

 神が地に遣わされた唯一の救い主、主イエス・キリストの御名によらなければ、その道を見出すことも、いのちを得ることも、死を滅ぼし闇から救い出す「救い主」を遣わしてくださった御父のもとに帰ることもないのです。

 

 神の御子イエスは、人を、悪魔の支配と、死と、闇と、滅びから救い出す、救いの道です。真理の光に行き着く、唯一の正しい道です。イエス・キリストの御名によらなければ、この道を見出すことはできません。