ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

明けの明星は輝いている

 

 今から約二千五百年前(イエス降誕の約五百年前)、悟りを探究し、涅槃への道を明らかにしたいと願う仏陀は、一つの悟りを得ました。究極の悟りです。弟子たちに遺しました。

 

 「私のあとに、悟りを生きる人が現れる。(悟りを明らかにするだけではなく、悟りそのものを実践して生きる人が現れる。)明けの明星が現れる。」

 

 仏陀の残した教えを探究する弟子たちが多い中、一部の弟子は、仏陀が語った「明けの明星」の出現こそが、仏陀の悟りの極みだと捉えて、教義ではなく、仏陀の言い遺した「明けの明星」の現れるのを待ち望みました。

 

 悟りの完成と、涅槃を求め続けた仏陀の光明です。仏陀が望みとした「明けの明星」です。それは、仏陀の入滅後(死後)に、世に現われるものです。明けの明星の光は、すべてのことを明らかにする真理の光です。

 

 仏陀の悟りの背後に、まだ、見出されていない、隠れた道理、煩悩が隔てている純真なもの、不変の真理をも、人々に開いて明らかにされるお方です。

 

 アブラハムがまだアブラムであったとき、親類のロトとその財産を奪った連合国の王たちを打ち破って、ロトとその財産、女たちや人々を取り戻した。

 

 アブラムが打ち破って帰って来ると、シャレムの王メルキゼデクはパンと葡萄酒を持って来た。メルキゼデクはいと高き神の祭司であった。

 

 メルキゼデクはアブラムを祝福して言った。

 「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」

 アブラムはすべての戦利品の十分の一をメルキゼデクに与えた。(創世記14:19,20)

 

 地上に、天地万物を造られた全能の神、いと高き神の祭司が置かれたのは、アブラムがアブラハムとなって、神と契約を結び、その契約を受け継いだアブラハムの子孫イスラエル(ユダヤ民族)が、モーセを通して、アブラハムの神と契約を結ぶ民族とされた時です。神が、レビ族を選び、アロンとその子孫を大祭司とし、神の祭司をイスラエルに置かれたのです。

 

 そのレビ人がまだ、アブラムの腰にいた(まだ生まれていない)時に、神の祭司を生むアブラムの前に、いと高き神の祭司メルキゼデクが現われ、アブラムを祝福しました。このメルキゼデクは、後に肉体をもって世に現われる神のひとり子(主イエス・キリスト)がメルキゼデクとして、アブラムの前に来たのではないのか、とも考えられています。

 

 神は、神の子羊キリスト・イエスに、「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」と言っておられます。

 

 メルキゼデクについて、へブル7:1-11に書かれています。

 メルキゼデクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でした。その名を訳すと義の王であり、サレムの王、すなわち平和の王です。父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司として留まっているのです。

 

 そして、ダビデの子イエスは、アロンの位ではなく、メルキゼデクの位に等しいと呼ばれる祭司です。神が、そう呼んでおられるのです。祭司の系図のレビ族からではなく、祭司が立つことのない他の部族ユダ族から立てられた祭司が、主イエス・キリストです。

 

 仏陀に示された明けの明星は、アブラムにとってのメルキゼデクのような存在です。

 もうすでに、神が定めておられる、神が遣わされる者です。神が神の民イスラエルに神のひとり子を遣わす前に、神は、悟りに人生をかけ心を砕き、涅槃を慕い求める仏陀の心に思い浮かべてくださったのです。

 

 仏陀に示された明けの明星は、すでにあるもの、そして、仏陀の入滅後に現わされるものなのです。

 

 仏陀の語る「明けの明星」こそが、涅槃を説く者、悟りを明らかにする者、悟りの道を導く者であると、直感したわずかな弟子たちが、この明けの明星、一点に思いを絞り、明けの明星の出現を待ち望んでいたのでしょう。他の弟子たちのように、仏の道(仏教)を開くのではなく、「明けの明星」の出現を待ち望む小さな群れとなっていたのでしょう。

 

 仏陀の語った明けの明星は、その約五百年後、待ち望んでいた賢者たちに現われました。明けの明星を待ち望んでいた賢者たちに、仏陀に明けの明星の出現を示された神が、それは、「ユダヤ人の王」であることを示しておられたようです。

 

 「明けの明星」を待ち望んで来た東方の賢者たちは、天に現われた明けの明星に導かれて長旅のすえ、ユダヤのベツレヘムに来て、神の御子イエス(主キリスト)を拝んだのです。

 

 今から約二千年前に現われた「明けの明星」は、今も世界を照らしています。「ユダヤの王」として来られた神のひとり子イエスは、世界中の人々の救い主として、救いを求める人々に、御自分の血潮をお与えになります。

 

 「明けの明星」は、悲しみと嘆きと苦しみから解放し、死と滅びから救い出し、永遠のいのちを与えます。仏陀の語った涅槃よりもすぐれた天の御国と、仏陀の悟りよりもすぐれた贖いの子羊イエスの血と、仏陀の悟った仏(本願)にまさる父なる神を明らかにし、求める者たちに、ただでお与えになるのです。

 

 「明けの明星」は、神の救いです。天地万物を造られた創造主であられ、最後の裁きをされる裁き主であられる神、いのちを救う権威も滅ぼす権威をもお持ちになっておられる唯一の神が、御自身のひとり子イエスの犠牲によって、火で焼かれる罪人たちを永遠の火から救い出してくださるのです。

 

 「明けの明星」は、かげることなく、今も輝き続けています。いのちを求める人々はみな、イエス・キリストの御名を呼び求めてみましょう。悟れなくて良いです。苦しい状況を克服できなくて挫折したままで良いです。そのままで、イエスの名を呼び求めてみましょう。イエスの救いを受けましょう。

 

 主イエスを求め、キリストを呼び求める者に、神は、助け主(キリストの御霊)を用意しておられます。キリストの御霊は、知識の無い者に知識を与え、知恵の無い者に知恵を与え、力の無い者の力となってくださいます。

 

 明けの明星は、今日も輝いています。隠されてはいません。心の目を、見えない神、主キリストに向ければ、心の覆いを取り除いてくださいます。闇に繋がれた思いに、光が差し、罪の縄目を解きほぐしてくださいます。

 

 神は、罪を責められません。罪を赦すために、御自分のひとり子を私たちにくださったのです。私たちの罪を赦すために、御自分のひとり子を犠牲とされました。罪の生贄としてひとり子イエスを私たちの罪の身代わりとされたのです。

 

 御自身のひとり子をお与えになったほどに、罪もわからず右も左もわきまえない愚かな人間を憐れんでくださいました。

 

 明けの明星は、救いの望みを持つ、罪の捕らわれ人を、罪の報酬の死と滅びから救い出すために、二千年経った今もなお、輝き続けています。

 

 「神は言われます。

 『わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。』

 確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(コリントⅡ 6:2)