ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

ユダヤ民族に与えられた聖書

 

 聖書の記者は、新約聖書の「ルカによる福音書」と、「使徒の働き」の書簡の記者と言われている、ルカだけが異邦人で、それ以外の書簡はすべて、ユダヤ人によるものです。

 

 ユダヤ教で「トーラー」と呼ばれる、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の五書、旧約聖書の最初の五つの書は、モーセの著作と考えられています。

 

 天地の創造から書き始められています。その情景を肉眼で見たことのない記者が、聖霊なる神によって知らせられ書いたものです。最初の人アダムのことも、数千年後の記者が知る由もない人です。しかし、記者は、神の霊によって筆記したのでした。

 

 「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(テモテⅡ 3:16 )

 

 神の霊感による、という部分は、直訳すると、「神の息吹による」と訳されるそうです。人が生きた者となったのも、神の息が吹き込まれたことによります。

 

 「神である主は、土地の塵で人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」(創世記2:7)

 

 全能者の息が人にいのちを与え、神の霊によって書かれた聖書のみことばに、いのちが与えられています。聖書は、神のいのちが宿る書なのです。

 

 「主の息吹がその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40:7,8)

 

 主の息吹は、滅ぼす力でもあるのです。聖書の中には、永遠のいのちと、永遠の滅びのことが書かれています。

 

 主である神の息によって、生きたものとなり、主の息吹によって、死んで滅びるものとなるのです。人は、神によって生かされも、殺されもする儚い存在です。自分の意志で生きることができません。いのちは、人のものではないからです。いのちは、神からの借り物です。

 

 神から一時預かり受けたいのちを、いのちの所有者である神が満足されるように使うのか、いのちの所有者である神に高ぶり、所有者からいのちを奪って自分がいのちの所有者になりすましていのちを乱用するのか、それは、一人一人の人に任されています。

 

 いのちを借りていた人はみな、いのちの所有者にお返しする時がやって来ます。その時、所有者である神が、貸していたいのちの状態を確認されます。

 

 貸主である神は、人がいのちを正しく管理し有効に使うことができるようにと、いのちを正しく取り扱うための導き書として、教えと戒めと義の訓練とのために有益な聖書のみことばを与えられたのです。

 

 神は、ユダヤ民族を奴隷の家エジプトから連れ上り、神が選んだカナンの地(現イスラエル)に導き入れるために、モーセを指導者として立てられました。神は、モーセを通して神の律法を与え、ユダヤ民族と契約を結び、イスラエルを神の民とされたのです。

 

 モーセに出会われた神は、先祖アブラハムと契約を結ばれた神であり、アブラハム、イサク、ヤコブの神です。アブラハム、イサク、ヤコブの神が、ヤコブの子孫であるユダヤ民族をイスラエルとし、御自身をイスラエルの神と名乗られました。

 

 イスラエルは、地上に置かれた神の祭司の国民です。地上のあらゆる民族、国民を全能の神に仕えさせるために、立てられた祭司の国民でした。地上のすべての民族は、イスラエルによって祝福されるはずです。地のすべての国々は、アブラハムの子孫であるイスラエルによって祝福されることが、神の御計画だからです。それは、アブラハムとの契約なのです。

 

 神のことばは永遠に立つのです。

 神は、仰せられます。「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰って来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」

 神の御子イエスも言っておられます。「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」(マタイ24:35)

 

 詩編の記者は言っています。

 「主よ。あなたのことばは、とこしえから、天において定まっています。」(詩編119:89)

 

 聖書に書かれているすべてのことは、とこしえから、天において定まっているのです。

 

 聖書は、ユダヤ人によって記され、ユダヤ民族に与えられました。祭司の国民イスラエルが、地上のすべての民族、国民を永遠のいのちに教え導くために与えられました。新約聖書もキリスト教のものではありません。ユダヤ民族に託されたものだったのです。

 

 しかし、ユダヤ人たちが、永遠のいのちを与えられる神のひとり子を拒み、神が約束しておられた主キリストを信じなかったために、新しいいのちの契約が記された「新約聖書」は、ユダヤ人のもとに留まることがありませんでした。

 

 旧約聖書は、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の聖典です。ユダヤ教徒は、旧約聖書だけを聖書としています。キリスト教徒は、旧約新約合わせて聖書としています。ユダヤ人の弟子たちに与えられたイエスのことばも約束も、長い間、異邦人のキリスト信者たちが守って来ました。

 

 クリスチャンは、聖書がキリスト教徒に与えられたものだと思っていますが、実は、ユダヤ人に与えられたものだったのです。神の御子イエスもユダヤ人としてお生まれになっています。

 

 ですから、本来、ユダヤ人ではない異邦人は、神の契約の外にあった者なのです。ユダヤ人は契約のうちに置かれている民族です。たとい、主キリストを信じていない者であっても、先祖ゆえに、ユダヤ人は契約のうちにいる民族なのです。神のみことばは、とこしえのものだからです。

 

 いわば、ユダヤ人は神の家の実子であり、異邦人は養子なのです。実子であるユダヤ人に高ぶってはなりません。神の家の実子を迫害してはなりません。ユダヤ人を迫害することは、イエス・キリストの実の兄弟姉妹、神の家族を迫害することになります。イエスは同胞であるユダヤ人を憐れんでほしい、と願われるのです。

 

 万軍の主は、イスラエルについて、こう言っておられます。

 「あなたがたに触れる者は、わたしの瞳に触れる者だ。見よ。わたしは、こぶしを彼ら(イスラエルに乱暴を働く者)に振り上げる。」(ゼカリヤ2:8,9)神のことばは永遠に堅く立つもの、神のことばは今も変わりません。

 

 異邦人は、神に仕える民でもなく、神の民でもなかったのに、イスラエルによって祝福されています。異邦人は、神のことばである聖書をイエスの弟子であるユダヤ人たちから与えられました。また、イスラエルの生んだメシア(主キリスト・イエス)が、異邦人にとっても救世主となって救ってくださり、イスラエルのうちに招き入れてくださるのです。

 

 ユダヤ民族に与えられた聖書は、異邦人にとっても、神の霊感による神のことばです。とこしえに変わることのない救いのことばです。