ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

山羊に気をつけよう

 

 マタイ13:24-30に、毒麦のことが書かれています。

 キリストの教会の中(麦畑)に、悪魔が毒麦の種を蒔くことが書かれているのです。麦が芽生え、やがて実ったとき、毒麦の正体が明らかになります。成長の過程では見分けがつきません。

 

 畑の主人のしもべが、主人に毒麦を抜き集めることを申し出ますが、主人は言います。「いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかも知れない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。」

 

 イエスは、このたとえ話を使って、神の民のうちに起こることを語られたのです。イエスを主と告白して、神の教会の一員となって、永遠のいのちを受けるのではありません。

 

 イエス・キリストを主として歩み、キリストのみことばによって造り変えられ、キリストの御霊によって新しく生まれて、新しい創造を受ける者が、神の霊を受けた神の子どもなのです。

 

 キリストの教会に集まる者がすべて救われるのではありません。キリストの御霊によって、キリストの足跡をたどる者、いのちの道を歩む者たちが、永遠のいのちを受けるのです。

 

 ユダヤ人だからと言って、すべての人が神の契約のうちにいる者ではありません。キリストの教会に、毒麦が蒔かれるように、神の民ユダヤ民族のうちにも、神の敵である悪魔によって、神の羊を悪い者にしたり、追い散らす山羊が送られています。すべてのユダヤ人が、神の羊ではないのです。

 

 山羊は、肉なる者です。この世の者です。神を畏れることがありません。神の選民である特権を、神の国のためではなくて、この世のために利用します。そして、自分自身を偉大な者とする悪魔の性質を持っているのです。

 

 イスラエルが神と契約を結ぶ神の民であるから、すべてのユダヤ人が神のわざをするわけではありません。

 

 イエス・キリストを裏切り、イエスの命を狙う者達にイエスを売ったのは、イエスの弟子である、ユダヤ人のイスカリオテのユダでした。そのときまで、他の弟子たちは、ユダを仲間だと信じ、疑うことはありませんでした。まったく見分けがつかないのです。

 

 イエスはご存じでした。イエスは言われました。

 「この十二人の中のひとりで、わたしといっしょに、同じ鉢にパンを浸している者です。確かに、人の子(キリスト)は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間は呪われます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」(マルコ14:20,21)

 

 イエスは、ご自分が裏切られる悲しみではなく、イスカリオテのユダがこれから向かう滅びを見て、嘆かれたのです。イスカリオテのユダは、聖書に書いてあるとおりに、キリストを裏切る者としての役目を担って、イエスの十二弟子に加えられた弟子です。

 

 イエスの公生涯をともに歩んだ弟子です。祭司や律法学者やパリサイ人たちから非難される一行の中で、この小さな集団に仕えて来た者です。しかし、ユダは、初めからキリストを裏切る者として、敵が送り込んだ者でした。こんな役目を担って生まれて来るのならば、生まれてこない方が幸いだったと、主イエスは嘆かれたのです。

 

 このように、神に敵対する者として生まれる、悪魔の子のユダヤ人もいます。また、キリストに殺意を持つ祭司や律法学者やパリサイ人たちのように、悪魔の支配下にいるユダヤ人もいます。祭司長たちに扇動されてキリストを十字架につけた民衆のように、悪魔にそそのかされて悪魔につくユダヤ人もいます。また、イエスが神の御子キリストであることを信じて死に至るまで忠実に神に仕えるユダヤ人もいます。しかし、すべてのユダヤ人が、神の民としての歩みをしているわけではありません。

 

 キリスト教会に属するクリスチャンのすべてが良いものではないのと同じです。

 

 神に属するユダヤ人は、聖書のことばを信じ守ります。悪魔に属する者は、神の契約を人間の手で実現しようと試みます。

 

 世界を治めるのは、ユダヤ人から出た主キリストの働きです。しかし、神を畏れない者は、主キリスト抜きで、自分たちユダヤ人がそれを実現しようとするのです。神の御子抜きで世界を治めようとします。自分たちが世界を制する王者になろうとするのです。これは、神から出た者ではありません。

 

 神は、血統を重んじられます。出エジプトしたときに、イスラエルにはユダヤ民族とともについて来た外国人もいました。在留異国人です。

 

 また、ユダヤ教に改宗したユダヤ教徒がユダヤ人に数えられていますが、神が契約を結んだイスラエルは、アブラハム、イサク、ヤコブの血肉の子孫に対してです。

 

 霊なる存在の神も天使も、悪魔も悪霊も、霊を見ます。それで、一瞬にして、ユダヤ人かそうでないのかを知ります。たとい、本人がユダヤ人であることを知らなくても、その系図を一瞬にして見ることのできる霊なる存在には、ユダヤ人であると知ることができます。

 

 たとい、自分はユダヤ人であると信じている人やイスラエル国家に承認されているユダヤ人であっても、霊なる存在のものにとっては、系図の違う者は明らかです。

 

 そして、その事が現実的に明らかにされる時が来ます。

 反キリストが中東の実権を握り、エルサレムに神の神殿を建てる時が、そのときです。悪魔から権威を受けた反キリストは、世界中に隠されているヤコブの系図のユダヤ人たちを見つけ出してイスラエルに集め、イスラエルにいるユダヤ人のうちで、ヤコブの系図でない者たちをイスラエルから別の場所に移動させます。

 

 神の神殿は、ヤコブの子孫によって建設されます。これは、聖書のことばの成就であり、また、神殿建築後に、反キリストがひと所で、集めたユダヤ人を絶滅するためでもあります。

 

 ユダヤ人と言っても、羊と山羊がいます。キリストの教会と言っても、麦と毒麦がいます。

 

 羊や麦を祝福する者は、神の祝福を受けますが、山羊や毒麦を祝福する者は、祝福されないばかりか、山羊や毒麦と同じ報いを受けることになるかも知れません。

 

 麦と毒麦は、実が育つまで見分けがつきません。羊と山羊もどこで線引きしたらよいのかわかりません。

 

 人にはわからなくても、キリストの御霊はご存じです。霊のことは、霊によってでなければ理解できません。御霊に聞くしかありません。日々、祈り、御霊に尋ね、御霊の平安な感覚を受けるものを選んで歩んでいったら良いと思います。

 

 神の御霊に従って、ユダヤ人を祝福するならば、神の祝福を受けるでしょう。