ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神のことばにいのちがある

 

 神は、いのちの根源です。永遠の昔から存在しておられ、天地万物を造られたのも、いのちの根源である神によります。すべてのものは、神の被造物です。

 

 自ら存在しているものは、何一つとしてありません。神は、存在の根源である方です。神が、保っておられるから、存在しているのです。

 

 だれも神を見た者はいません。神のもとに上った者はいないのです。しかし、神のもとから来られた方がおられます。永遠の昔から、神とともにおられた神のひとり子イエスです。

 

 イエスは、神に肉体を造ってもらい、人の子として、イスラエルに遣わされました。そして、ユダヤ人たちに、父について語られました。イエスの言う「父」とは、天地万物を造られた神のことです。イエスは、天地万物を造られた神のひとり子です。イエスが神のひとり子として天にあったとき、神とともに天地万物を造られたのでした。

 

 イエスは神の御子であり、神とともに天地万物を造られた創造主でもあるのです。すべての被造物は、父なる神が、御子のために、御子とともに造られました。天地万物は、御子のものでもあるのです。

 

 天地万物が造られたとき、神は、神のことばによって生み出されました。神のことばは、御子でした。御子にとって、神は父です。御子は御父とともにおられたのです。御父と御子と聖霊は、ひとつ心、ひとつ思いの神です。人間ではありません。人を造られた神です。霊なるお方です。全き聖、全き義、全き愛の神です。

 

 神はいのちです。神の御意思で有るものとなり、神の御意思で無いものとなるのです。神みずからがいのちであり、いのちを支配するお方です。いのちは、神の御手の中にあります。

 

 全き聖なるものは、神と調和します。聖なるものは、神の光の中に留まっていますが、そうでないものは、光の中では生きられません。悪魔のために用意された暗闇で生きるしかありません。

 

 神が天地万物を造られたとき、神のことばによって造られました。「光よ。あれ。」といえば、光が現われ、「大空よ。水の間にあれ。水と水とに区別があるように。」といえば、大空が現われて大空の下と上に水は分かれました。このように、神のことばによって創造されました。

 

 神が最初の人を造られたとき、塵からとってかたち造り、神の息を鼻から吹き込んで生きた者とされたのです。そして、神のことばを与えられました。

 「生めよ。増えよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」(創世記1:28)

 

 神は、人にことばを与えられました。神のことばによって生きる者として創造されたのです。

 

 神は、人に命じられました。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:16,17)

 

 「然り」しか無いお方が、「否」を命じられました。これは、重要なことでした。人にとって、「否」と捉えられることが、神にとっては、「然り」なのです。なぜならば、食べたその時、必ず死ぬからです。

 

 これは、必ず死ぬ木の実を回避させるための命令です。「否」ではありません。必ず死ぬ木の実を食べなければ、生き続けるのです。死はありません。死なないために下された命令でした。神のことばから外れることは、死を意味します。神のことばにいのちがあるからです。

 

 「罪」は、ギリシャ語で「ハマルティア」と言って、「的外れ」をさすようです。新約聖書はギリシャ語で書かれており、聖書でいうところの罪は、的外れを現わす言葉のようです。

 

 アダムが犯した罪は、神のことばから外れたことでした。「神が食べてはならない。」といわれた木の実を食べると、アダムはいのちの神から外れて死んだ者となったのです。

 神のことばによっていのちと繋がっていたアダムは、神のことばから外れると、神のことばのとおり、「いのちの神」という正しい的から外れて、死んだ者となりました。そして、造られた本来の姿を失いました。居るべき場所(神のことばのうち)に留まることができなかったアダムは、的外れの役に立たない者となったのです。

 

 神のことばは、神のひとり子でした。イエスの弟子のヨハネが証言しています。

 「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、はじめに神とともにおられた。

 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:1-5)

 

 イエスは、神のことばとして、世に来られました。神を証する者です。神の栄光を現わす者です。神を告げ知らせる者です。神とともにおられた神のことば、神のひとり子がイエスとして、イスラエルに来られたのです。この神のことばは、すべてのものを造られた方です。

 

 神のことば(神の御子イエス)にはいのちがありました。神に繋がるいのちです。神のことばから外れた、的外れなアダムではありません。神のことばのうちにおられる「いのち」なのです。神の御心にかなう適格な「人の子」です。

 

 イエスは、神のことばのうちを歩まれました。的を外したことはありませんでした。見当違いな人々に、的を得た真理を教えられたのです。真理は、神御自身(父なる神)です。そして、神の霊(聖霊)、神のことば(御子)なのです。

 

 神のことばとともに歩まれた「人の子イエス」に見当違いなことは一つもありませんでした。的外れなことは何もなかったのです。真理だったのです。

 イエスのことばは、人々の見当違いを正し、神を知り、神に立ち返る者、的外れから、的を得る者に導くものでした。いのちを与えることばでした。イエスがいのちそのものだったのです。このいのちは人の光でした。救いの希望でした。

 

 的外れな人々、的外れな被造物、真理を悟ることのできない闇の世を照らす、啓示の光、真理の光です。イエスのことばは、光として、闇の中に輝いています。そして、闇はイエスのことば、神のことば、聖書のことばに打ち勝つことはできません。

 

 今の世は、イエスのことばが神のことばであり、イエスのことばを信じ、そのことばを守る者は、的外れなアダムの死から、いのちに移されるのです。神のことばにいのちがあります。

 

 神の御子イエスのことばに聞き従わない者は、神の怒りがその上に留まり、アダムに与えられた忠告のことばどおりに「必ず死ぬ。」のです。彼らは、的外れのまま、永遠の死を受けて、滅びます。

 

 神のことばにいのちがあります。神のことばは、いのちであり、いのちを得させることばなのです。

 

 神の御子イエスのことばに聞き従う者は、的外れな生き方が解消されて、永遠のいのちを持つ者とされ、天の御国で生きる神の子どもとされるのです。