ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

イエスのことばに従う

 

 イエスは父なる神に聞き従い通されました。弟子たちを選んだのも、イエスご自身ではなく、父なる神でした。イエスは、父に聞き、父のことばを語り、父のことばを実行されたのです。

 

 ペテロが、「私たちに、そのたとえを説明してください。」と言うと、イエスは言われました。「あなたがたも、まだわからないのですか。」(マタイ15:15、16)

 

 イエスが「パリサイ人のパン種(教え)とヘロデのパン種(命令)とに十分気をつけなさい。」と言われれば、弟子たちは、自分たちがパンを持って来るのを忘れたことを言っておられるのだと、互いに議論し始めました。

 すると、イエスは言われました。

 「なぜ、パンがないと言って議論しているのですか。まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。」(マルコ8:14-18)

 

 弟子たちは、他のユダヤ人と違って、イエスのわざを見てイエスが神から遣わされた方であると信じる心があり、イエスのことばを聞いてイエスが真理を語っておられることを信じる心があるのに、まだイエスのことを、本当にはわかっていませんでした。悟ってはいませんでした。イエスのことばを正しく聞き取る耳にはなっていなかったのです。イエスのことばを私的解釈する者でした。

 

 しかし、私的解釈で突っ走る者ではありません。イエスに正されれば、それに耳を傾けて、イエスのことばの意味を理解する者となるのです。

 

 おしの霊に取りつかれた子の悪霊(おしの霊)を追い出せなかった弟子たちに、イエスは言われました。

 「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたと一緒にいなければならないのでしょう。いつまであなたがたに我慢していなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れてきなさい。」(マルコ9:17-19)

 

 カナの地で最初の奇跡(婚礼の葡萄酒の奇跡)をされたときのことです。

 「イエスは、弟子たちにご自身をお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人について誰の証言も必要とされなかったからである。」(ヨハネ2:24,25)と聖書にあります。

 イエスは弟子たちとともに歩まれましたが、その弟子たちは、イエスが心を許せるほど、信頼に値する者ではありませんでした。

 

 イエスが十字架につけられる前日、ピリポはイエスに言いました。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」

 イエスは彼に言われた。

 「ピリポ。こんなに長い間あなたがたと一緒にいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。

 わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、御自分のわざをしておられるのです。

 わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」(ヨハネ8-11)

 

 イエスは、父の中におられました。父のことばの中にいたのです。父のことばから外れることはありませんでした。神は霊なるお方です。「父を見せてください。」と言っても、肉眼で見ることのできないお方です。

 

 イエスは、肉眼で見ることのできない霊の存在である父なる神を映し出す「人の子」です。いわば、霊なる神を映し出すプロジェクタースクリーンのような存在です。霊なる神が、肉眼で見、肉の耳で聞くことのできる存在として、肉体を持つ神のひとり子イエスの姿で世に現れたようなものです。

 

 それで、イエスを見た者は、目に見えない父なる神をイエスを通して見ており、イエスのことばを聞いた者は、耳に聞こえない神の御声をイエスを通して聞いているのです。

 

 それゆえ、イエスは言われます。

 「わたしが父におり、父がわたしにおられると言うのを信じなさい。そのことがわからないならば、また、それが信じられないならば、わたしが現わしている奇跡やわざによって、わたしとともにおられる神を知り、それが、父なる神であることを信じなさい。」

 

 遣わした弟子たちが悪霊どもに勝利したとき、イエスは、サタンが稲妻のように天から落ちるのをご覧になりました。

 すると、イエスは、聖霊によって喜びに溢れて、こう言われました。

 「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。

 そうです。父よ。これが御心にかなったことでした。

 すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、誰も父を知る者がありません。」(マタイ11:25-27)

 

 弟子たちを選び集めたのは、イエスではなく、父だったのです。イエスは、いつまでたっても、わからない弟子たちに我慢しておられました。しかし、この時、イエスは、父の御心を知ったのでした。

 

 イエスは、父のことばや導きをすべて理解しておられたわけではないのです。イエスは、理解できなくても、ただ、父のことばに従い通されました。そして、父からのものを受けられたのでした。

 

 イエスは、父なる神に従い通されました。神のことばとともに歩まれたのです。それで、イエスは父なる神の中に留まっておられます。神から外れたことは一度もありませんでした。

 

 イエスのことばは、御父のことばです。イエスのわざは、御父のわざです。イエスのことばを聞く者は、御父のことばを聞いているのです。イエスのわざを見る者は、御父のわざを見ているのです。イエスを信じる者は、御父を信じているのです。

 

 イエスのことばに従う者は、神に従う者です。神は、イエスのことばに従うための助け主として、御霊を授けてくださっています。キリストが与えられる御霊は、真理(神)の御霊であり、イエスのことばを思い起こさせ、すべてのことを教えてくださいます。

 

 この真理の御霊は、もうひとりの助け主であって、イエスを信じた者といつまでも、ともにおられます。こうして、神は、イエスを神の御子キリストであることを信じた者を、世にあり肉体のうちにあっても、御霊によって、霊のことを知り、御霊の助けによって、イエスのことばに従う者としてくださるのです。

 

 御霊はその人の霊のうちにあって、「これが道だ。これに歩め。」と語りかけ、正しい道に導かれるのです。

 

 御霊を受けた弟子たちは、以前とは違います。真理を悟り、大胆に神のことばを語る者となりました。

 

 イエスは、父なる神のことばのうちを歩まれました。イエスのことばに従い、イエスのことばのうちにいる者は、イエスによって、父なる神のうちにいる者です。

 

 御霊は、イエスのことばに従う歩みを導かれます。聞く力、聞き従う力を御霊が与えられます。そして、御霊は、イエスのことばに従う人を、神の子どもに造り変えていかれるのです。