ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

愛の中へ

 

 「初めに、神が天と地を造られた。」(創世記1:1)

 私たちが見ている天と地は、神が造られたものです。ということは、天地万物が存在していないときがあったということです。闇の中にある宇宙、天体、生き物、人など、もともとは何も無かったのです。何も無いところに、神が無から有を生じさせられました。

 

 人間は、天地万物を人の生きる世界として見ています。天地万物のすべてが造られ、環境のすべてが整えられてから、人が造られています。人が手を加えたものは、何一つありません。すべて、ひとりの神が造られたのです。

 

 ひとりの神は、永遠の昔から存在しておられる、「有って在るお方」なのです。初めに、神が存在しておられます。この方は、真理であり、絶対者です。また、父なる神と子なる神と聖霊の三つにして、おひとりの神です。

 

 神は、愛に満ち満ちておられます。御父も御子も聖霊もいのちであり、愛であり、義にして聖なる神です。御父と御子と聖霊の交わりは普遍の愛です。普遍の愛とは、どの民族、どの世代、どこの国の人にも当てはまる愛ということです。普遍的なものではありません。普遍のものなのです。

 

 天地万物を造られた普遍の愛の神が、聖書の神です。多くの宗教があり、多くの救い主がいるように思われますが、真理とは、普遍のものなのです。一つの民族、一つの国民、一つの世代のものではありません。

 

 「この御国の福音(創造主であり裁き主なる全能の主〈聖書の神〉が遣わされる、とこしえの御国を創造される救世主イエス・キリスト〈神の子羊イエス〉の良き知らせ)は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」(マタイ24:14)とイエスは言われています。

 

 御国の福音とは、神のうちには暗いところが少しもない、神は光であるということです。(光の子によって、御国は完成します。)御子イエスの血はすべての罪から私たちを聖めます。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神はその罪を赦し、すべての悪から私たちを聖めてくださいます。

 

 もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかも闇の中を歩んでいるなら、真理を行なっていません。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりであり、互いに交わりを保つことです。

 

 普遍の愛とは、神の交わりであり、この交わりの中に入ることです。神の交わりが光であるように、私たちも互いに交わりを保ち、光の中を歩むのです。

 

 永遠のいのちと言うと、「これ以上長く、生きたくない。」とか、「もう十分だ。」と感じる人もいるでしょう。永遠のいのちとは、生きる続けることではなくて、愛の中に入ることです。神との交わり、神の子どもたち(光の子ら)の交わりの中に入ることです。

 

 ダビデの賛歌です。

 「私たちの主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。あなたはご威光を天に置かれました。」(詩篇8:1)

 

 神の御名は、全地にわたって、告げ知らされるのです。神のご威光は天にあります。天に座しておられる神だからです。全地を見渡すお方なのです。一部の民族や一部の国だけではありません。すべての世代にわたって、全地を見渡しておられる神です。世界中の人々を造られた神だからです。被造物すべては神のものです。

 

 ダビデは言います。

 「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者でしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼(人の子イエス)の足の下に置かれました。」(詩篇8:3-6)

 

 神は、ひとり子に肉体を造り、人のかたちに造られました。こうして、人の子イエスは、十字架の贖いの死によって永遠の死を滅ぼし、贖いの血によって罪を赦し、悪魔の勢力を滅ぼして、万物を足の下に従わせるのです。

 

 神の愛は、赦しであり、恵みであり、祝福です。人のそのままを理解されるお方です。神の御国は、神の愛の中に入ることです。怒りも悲しみも憎しみも呪いもありません。責め立てる者もなく、訴える者もいません。神のうちにあるのは、憐れみです。

 すべてのものは、純真であり、愛と喜びと楽しみに満ちており、愛の神と一つとなるのです。神の御国は、魂の安息であり、平安と言い知れぬ喜びに満たされます。

 

 神の愛に触れる者は、暗闇の心がほどけてきます。イエスは、神の愛でした。愛に飢え乾いていたザアカイにはわかりました。「ザアカイ。」と呼びかけられたとき、ザアカイのうちに、イエスの愛が注がれたのです。イエスの愛を受けたザアカイは、すぐに改心しました。他人から騙し取ったことを認め、それを四倍にして返すことを、イエスに告白しました。

 

 イエスの愛は、固くなった心を柔らかくします。意固地になった心に、イエスのことばが届けられると、創造主との和解と御子イエスとの交わりが始まるのです。

 

 イエスの真理のことばを、愛と受け取るのか、そうでないかは、その人の心次第です。愛として受け取る人は、自分の罪を知る者となります。そして、悔い改めるのです。愛として受け取らない人は、イエスを憎みます。

 

 イエスのことばは、一つです。しかし、受け取る人の心次第で、善にもなり、悪にもなるのです。神は、善人を集めておられるわけではありません。罪人を集めて罪を悔い改めさせておられるのです。

 

 善人は、自分が罪人であるとは思っていません。自分の罪を認めません。しかし、罪人は、自分の罪がわかります。それで、イエスに自分の罪を言い表わします。言い表わした罪は、赦されるのです。

 そして、罪の赦された者は、神の愛と神の義を証する者です。「神は罪人を憐れみ愛しておられる。」「神は罪を赦してくださる。」「神は真実である。」「神は正しい。」と証する者となります。

 

 赦された罪人は、イエスの愛を知り、神の愛を知るのです。神は、贖いの小羊イエスの血を受けイエスを主と告白する人を義とされ、正しい者とされます。イエスの御名を呼び、イエス・キリストの名によって祈る者は、神の交わりの中にあります。神の交わりの中にある者は、神に受け入れられた者、神の愛の中にある者です。

 

 愛の中にある者は、神の御霊によって、神の交わりの中に入るのです。永遠のいのちとは、この愛の中に入ることです。

 

 「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら、神は愛だからです。」(ヨハネⅠ 4:8)

 「愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。キリスト・イエスにある者は、互いに愛し合いましょう。」(ヨハネⅠ 4:7)

 

 神の愛を退ける者は、闇の中を歩みます。愛の交わりはありません。互いの利益を図ります。互いに騙し合い、裏切り合い、心に怒りと憎しみが根を張ります。疑いと不安に支配された彼らは、望みを消す暗闇が永遠の住処となります。痛みと苦しみと絶望と叫びが、彼らの友です。誰も助ける者はいません。すべての者は敵であり、信ずべきものは何一つありません。愛は微塵もありません。敵に囲まれ、欺きと鞭と叫びが永遠に繰り返されるのです。

 

 光を求めましょう。神の交わり、神の御子イエスとの交わりの中に、真理があり、愛があり、いのちがあるのです。

 

 この福音が全世界に宣べ伝えられて、すべての国民の中に救われる者が起こされて、終わりが来ます。イエス・キリストの福音は、世界中に宣べ伝えられているのです。聖書の神が、普遍の神だからです。

 

 普遍の愛こそが、魂の安息の場所です。

 父なる神(キリスト・イエスの父である全能の神、天の神)に受け入れられる者は、御子キリストのことばを信じ従う者です。普遍の愛の交わりに入る者です。神の御国は、神の愛のうちにあるのです。

 

 神の愛の中、神の交わりの中に入った者は、神の御国で永遠に生きるのです。