ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

救われた人のしるしは御霊

 

 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と、ユダヤの人々にキリストの訪れを告げ知らせたバプテスマのヨハネが、「神から遣わされるキリストは、聖霊のバプテスマを授けるお方である。」と証言しています。

 

 墓から甦り復活されたイエスは、弟子たちに、「聖霊を受けよ。」と命じられました。肉体のイエスではありません。イエスの死を嘆き途方に暮れていた弟子たちに復活されたキリスト・イエスが現われて、命じられたのです。

 

 真理の御霊のことは、イエスから聞いていた弟子たちです。しかし、彼らが「先生。」と呼び一緒にいたイエスは十字架で死に、墓に入って、もうおられないのです。しかし、死んだはずの主イエスが復活のからだで目の前に現われて、「平安があなたがたにあるように。聖霊を受けよ。」と命じられました。

 

 死んだ人が生き返るなんて⋯イエスは、ご自分が死人の中から三日目に甦ることも弟子たちに語っておられました。しかし、弟子たちの信仰と結びついていませんでした。目の前に現われた主イエスは、肉体をもっておられません。しかし、からだはあるのです。触ることもできます。死から甦ったイエスは食べることも、会話することもできます。しかし、肉体のような拘束のない新しいからだです。壁を通り抜けることも、一瞬にして移動することも、一度に様々な場所にいる人々に同時に現われることもできるからだです。

 

 弟子たちの信仰が、イエスの語っておられたことばと結ばれました。神には不可能なことはない。まことにイエスは神の御子であられる。弟子たちの信仰がイエスの信仰まで引き上げられました。イエスは神の御子であって、イエスの語っておられたことは真実であった、とはっきりと確信しました。この時はまだ、弟子たちは聖霊を受けていません。

 

 イエスは弟子たちに命じられました。

 「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」(使徒1:4,5)

 

 そこで、弟子たちはイエスにこう尋ねました。

 「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」

 イエスは言われた。

 「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父が御自分の権威をもってお定めになっています。

 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。(使徒1:6-9)

 

 弟子たちにとっての関心事は、イスラエルの再興でした。ローマ帝国から国を取り戻すことでした。彼らは、血肉のユダヤ人のイスラエルの国のことを思っていました。

 しかし、イエスにとってのイスラエルとは、神の御子イエスを信じて神に栄光を帰する者たちの国でした。

 

 血肉のイスラエルは、神の御子主キリストを世に現わす国民でした。地上のイスラエルであり、エルサレムです。

 キリストが王となられるイスラエルは、この世のものではありません。神への信仰によって建てられる神の民の国です。神への信仰とは、神が遣わされた主キリストを信じることです。十字架にかかったナザレのイエスを神の御子キリストであると信じ、イエス・キリストを王とする、イエス・キリストの国民の国です。

 キリストが再臨して、イスラエルの王となられる国は、イエスを愛して神に仕える平和な国です。御霊によって新しく生まれキリストの御霊によって新しく創造されたイスラエルです。御霊によって新しい創造を受けたキリストの民を集められる「永遠に堅く立つイスラエル」なのです。

 

 そして、そのときは、父なる神が御主権をもって定めておられます。人の努力で早まったり、遅れたりするものではありません。神の御主権が堅く立つ新しい世です。

 

 弟子たちは、イエスの命令に従い、エルサレムで父の約束(もうひとりの助け主を遣わす)を待ち望みました。

 「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まって約束のものを待っていると、突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。

 また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上に留まった。

 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」(使徒2:1-4)

 

 キリストがお与えになった、聖霊のバプテスマでした。弟子たちはキリストの言われた父の約束の、「もうひとりの助け主」「真理の御霊」を待ち望み、聖霊のバプテスマを受けたのでした。

 

 神の御子イエス・キリストへの信仰、イエスのことばへの信頼が、弟子たちの上に聖霊を下らせたのでした。イエスの約束どおり、もうひとりの助け主は、弟子たちのうちに来てくださったのです。

 

 イエスと一緒に歩んだ弟子たちにとっても、初めての経験でした。癒しや悪霊追い出しや死人の生き返りなど、イエスのわざを見てきた弟子たちでしたが、聖霊のバプテスマを見たことはありませんでした。

 

 聖霊のバプテスマは、天に上られた主キリストによってされるものだからです。聖霊のバプテスマは、御子イエスが父のみもとに帰られた栄光の証であり、神の権威を持つ御子キリストの救いが完了している証でもあります。

 

 弟子たちの主であられるイエスは、神の御座の右に着座され、神の御子の栄光を弟子たちに現わされました。バプテスマのヨハネが証言したように、ナザレのイエスは、聖霊のバプテスマを授ける神の御子なのです。

 

 サマリヤの人々が神のことばを受け入れた(イエス・キリストを信じた)と聞いたペテロとヨハネは、サマリヤに行って、人々が聖霊を受けるように祈った。(使徒14,15)とあります。

 彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。

 ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。(使徒8:16,17)

 

 イエス・キリストを信じた者は、聖霊を受ける祈りが必要です。キリストが王となられる国は、聖霊によって集められた者の国であり、御霊の教会だからです。

 

 イエスの弟子となった者に出会ったパウロが、「信じたとき、聖霊を受けましたか。」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」と答えた。

 「では、どんなバプテスマを受けたのですか。」と言うと、「ヨハネのバプテスマです。」と答えた。

 そこで、パウロは、「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」と言った。

 これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。(塩19:1-6)

 

 聖霊を受けると、舌が燃える炎のような御霊に触れられて聖められ、自分の知性を使わない御霊のことばで話させてくださいます。そして、異言や預言、癒しや奇跡、神の御力が現われるのです。

 

 神に選ばれた割礼の民(ユダヤ人)は、無割礼の民(異邦人)とは交際していませんでした。しかし、異邦人がイエス・キリストを信じると、彼らの上にも聖霊がお下りになり、彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いて、驚きました。神が、イエス・キリストの十字架のわざによって、異邦人をも神の民に加えられたのを見たからです。

 

 使徒たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたのを見て、言いました。

 「この人たちは、私たち(ユダヤ人)と同じように、聖霊を受けたのですから、いったいだれが、水を差し止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。」

 そして、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けるように彼らに命じた。(使徒10:44-48)

 

 聖霊を受けたことが、異邦人の救いのしるしとなりました。神は、ユダヤ人も異邦人も分け隔てをせずに、聖霊のバプテスマを授けられるのです。

 

 ペテロは、神は偏ったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう(神の御子を信じ受け入れる)人なら、神に受け入れられることを悟りました。

 

 「このイエス・キリストはすべての人の主です。」(使徒10:36)

 

 神に受け入れられた者のしるしが、御霊なのです。聖霊のバプテスマを授けられるのは、イエス・キリストです。キリストの血によって罪が贖われた人は、イエス・キリストが授ける聖霊のバプテスマを受けて、復活する者、永遠に生きる者とされる新しい創造を受けるのです。