ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神の与えられる信仰

 

 「イエスは弟子たちに言われた。『あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』シモン・ペテロが答えて言った。『あなたは、生ける神の御子キリストです。』

 するとイエスは、彼に答えて言われた。『バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。』」(マタイ16:15-17)

 

 イエスが神の御子であることを信じる信仰は、人から出たものではありません。人間には理解できないことです。目に見えない神の存在のこともあやふやなのに、神にひとり子がおられるなんて、だれも想像していません。

 

 日本で言うならば、神がおひとりであるということが、つまづきとなります。日本には、多くの神々の名前があって、神の御子がひとりしかいない、なんていうことは信じられないのです。しかも、そのひとり子が、人の姿でイスラエルの人々の間を歩まれて人として地上で生活されたなんて、そんなおとぎ話のような事が実際に起こるものでしょうか。

 

 私は、三浦綾子さんの著書を通して「キリスト教会」を知り、電話帳を調べて教会に連絡して聖書研究の学びに参加し、礼拝にも時々参加するようになりました。

 教会の人々はみな落ち着いていて、何か今まで出会った人々のうちには無い、何かを持っているように感じました。それがイエス・キリストへの信仰だとわかってきました。

 

 その頃の私は、イエス・キリストは心の悩みをともに担い慰めてくれる良いお方である、とまでしかわかりませんでした。

 教会の人々は、イエス・キリストは私たちのような人間ではない。神の御子なんだとしきりに説明してくれますが、私にはわかりませんでした。

 

 教会の人々は一様に、イエス・キリストは神の御子であり、救い主キリストであると信じていて、まったく疑っていないのです。なぜ、信じることができるのか。イエス・キリストは人間ではないか。

 他の宗教の教祖よりも、愛が深くてより人間らしい人に感じます。人間の心や状況や感情の動きまでも読み取ってくれる、最も人間に近い、人間とともに歩んでくれる優しいお兄さんのような存在です。それは、人の子イエスを見ていたからです。

 

 その頃は、罪がわかりませんでした。見えないけれども何か確かなものと繋がっていないもどかしさ、痛み悩み苦しむ原因が実は自分自身の中にある、ということは、薄々わかっていましたが、それが「罪」という語で表現するものなのかどうかまでは理解できませんでした。

 

 神は天地万物を造られた神である、人は神に造られた、という知識を持っていなかった私は、困惑しました。それまで生きて来た歩みがひっくり返るような衝撃でした。それでは、この世の常識は何なのでしょうか。

 まるで、立っている地が揺れ動くような不安定な感覚でした。地震のような恐怖はないけれども、何を信用したらいいのか、信じるものを失う不安に怯えました。

 人間の常識では受け入れ難いこの不思議な話に出会ったとき、まるで、自分のからだが宙に浮いて、地に足をつけていないような不思議な感覚を得ました。

 

 教会の人々はみな、同じ信仰を持って、ひとりの神に向かって、賛美し祈っています。神の御子イエスの御名が教会の共通言語でした。しかし、イエスが神の御子だとどうしても信じることができない私は、彼らの言語の中に入って行くことができません。一人だけ異色の存在のように感じました。

 みなが喜びに溢れている中で、一人だけ冷静でした。ただ様子をうかがっている部外者の存在です。異分子のようです。聖なる平安と喜びの中に存在する異物でした。本人の私自身が、自分の霊でそう感じたのです。

 魂においては安らぎがあり、社会や家族の中で味わったことのない安心感があるのに、霊においては孤独で惨めでした。言葉のわからない人々の中にいる不安と消えてしまいたいと思うような居心地の悪さがありました。

 教会の中は、この世とは別世界であり、この世のままのあり方では入っても馴染むことのできない所という印象を持ちました。

 

 教会の中の自分の存在に違和感を覚えました。私が感じる違和感は、イエスが神の御子だと信じていないことが原因なんだと思いました。しかし、教会の人々が説明してくれても、聖書のことばを示して教えてくれても、私にはわかりませんでした。私には、イエスが神の御子であるということが、わからなかったのです。

 鵜呑みにすることもできません。それは、わからないのに信じようと努力しているだけで、本当は信じていないのですから、自分を偽ることになります。自分自身を偽る信仰は、疑いと不安が膨らむだけです。

 

 宣教師ご夫妻に、キリストを愛する愛と信仰が与えられるように祈っていただき、教会を離れました。キリストのうちに今まで出会ったことのない「愛」があることは感じました。しかし、ベールがかかったままで、教会の人々のように喜びと平安を得ることはできませんでした。「愛」が目の前にあるのに、愛に到達できないのでした。

 

 しかし、神は祈りに答え、不思議な方法で、私にイエス・キリストが神の御子であることを知らせてくださいました。一瞬にして捉えることができました。闇をさまようような苦悶が嘘のようです。天からストンと落ちてきたようです。人間に教えられたのではありません。理屈ではありません。私の思考を覆い縛っていた闇が去って天が広がり、私は、イエスが神の御子だと悟ったのです。

 

 「あなたは、生ける神の御子キリストです。」とイエスに告白したペテロのように、天におられるイエス・キリストの父なる神が、イエスが神の御子であることを私に明らかに示してくださったのです。

 

 イエスが神の御子であるとわかると、「信仰」が与えられました。私が信じているのではなくて、神が私に、イエスの信仰を与えてくださったのです。

 

 もう迷いはありません。教会が場違いな場所だと思う思いはありません。教会に属し、イエス・キリストを神の御子と信じる人々の仲間に入りたいと、強く願いました。

 イエスが神の御子とわかり、イエス・キリストを信じる信仰が与えられると、自分の罪がわかるようになりました。神に対して赦しを請わなければならない罪人であることがはっきりとわかりました。神を神とせず自分勝手に生きてきたことを嘆く心とともに、神に対する罪の思いが腹の奥底から溢れました。泣いて赦しを請いました。

 

 罪がわかると、イエス・キリストの十字架の贖いの血の意味を知ることができました。罪の赦しの恵みにすがると、ご自分の命を捨てて私を生きた者としてくださったキリストの愛がわかりました。そして、キリストを愛する者となったのです。

 

 神が与えられる信仰は、信じるためのものではありませんでした。信じる者が、信仰によって生きるためでした。

 

 創造主である神は、土から造った人に息を吹き込んで生きた者とされました。罪によって死んだ魂に、神は、イエス・キリストを信じる信仰を与えて、永遠に生きる者としてくださるのです。

 

 信仰は、神のためではありません。神は、私たちが、死んで滅びることのない者、永遠に生きる者とされるために、私たちに、信仰を与えてくださるのです。