ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神の与えられる希望

 

 イスラエルの先祖アベルやエノクやノアやアブラハムたち、また、アブラハムと閉経後の妻サラとの間に生まれたイサクとその子ヤコブ(イスラエル)から、神と契約を結ぶ信仰の人々が生まれました。彼らは、神の約束を受け取っていました。

 

 「これらの人々はみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。

 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。

 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」(へブル11:13-16)

 

 彼らは信仰によって、神の約束を受け取っていました。彼らに約束されたものは、永遠の都でした。彼らは地上の故郷を心の拠り所にしていたのではありません。彼らは、自分が生まれた源、いのちの根源である創造主、天の神のおられる天の故郷を慕っていたのです。彼らの慕う所は、天にあるさらに勝る所です。

 天上にある都にあこがれる人々は、地上では旅人であり寄留者であることを告白していました。

 

 地上に来られた神の御子イエスは、言われました。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子(キリスト)には枕する所もありません。」(ルカ9:58)

 地上には、神の子が安らぐ場所はないのです。それゆえ、天の故郷にあこがれる人たちもまた、この地上では寄留者であり、旅人なのです。

 

 「信仰によって、アブラハムは、約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。

 アブラハムは、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。」(へブル11:9,10)

 

 カナンの土地の約束を受けたアブラハムですが、アブラハムもイサクもヤコブも、まだ手に入れることはなく、寄留者として、そこで天幕生活をしたのでした。

 アブラハムが得たのは、銀四百シェケルで買い取ったマクペラの畑地であり、アブラハムの私有の墓地として彼の所有となったのです。その墓地に、サラとアブラハム、リベカとイサク、レアとヤコブが眠っていました。

 彼ら(イスラエルとその先祖たち)は信仰によって、神のものを待ち望みました。カナンの地にイスラエル国家を建設したのは、ヤコブの子孫でした。アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセが夢見た土地の契約の成就は、モーセの従者であったヨシュアとイスラエルによって実現しました。しかし、いまだに、神がアブラハムに与えると言われた土地の半分も所有していません。

 

 「この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。」(へブル11:39,40)

 

 聖書には、アブラハムは堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいた、とあります。

 詩篇48:1-3、8には、こう書かれています。

「主は大いなる方。大いにほめられるべき方。その聖なる山、われらの神の都において。高嶺の麗しきは、全地の喜び。北の端なるシオンの山は大王の都。

 私たちは、聞いたとおりを、そのまま見た。万軍の主の都、われらの神の都で。神は都を、とこしえに堅く建てられる。」

 ダビデの賛歌があります。

 「門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。栄光の王とはだれか。強く、力ある主。戦いに力ある主。

 門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。その栄光の王とはだれか。万軍の主。これぞ、栄光の王。」(詩篇24:7-10)

 

 彼らは、イスラエルの喜びだけではなく、全地の喜びとなる大王を待っているのです。それは、戦いに力ある万軍の主、栄光の王です。彼は、悪魔を踏み砕き、足台とされる勝利者です。神の御子キリストです。

 神の御子キリストが天から再び来られるとき、悪魔はキリストの足台とされ、閉じられていた門は開かれます。

 

 堅い基礎の上に建てられた都が現われます。アブラハムの契約、モーセの契約、ユダヤ民族の契約、ダビデの契約と長年をかけて積み重なった契約が成就します。契約の実現として来られた神の御子キリストが堅い基礎を築かれました。すべての信仰者の信仰を集め、神がその都の設計をし建設されるのです。

 

 信仰は、この神の都とともにあったのです。神が与えられる希望は、この万軍の主の都とともにあったのです。日々の祈りが叶えられたという、一喜一憂する希望ではありません。それは、一人一人の信仰を育て建て上げるための霊的養いでした。多くの信者は、この世の希望の中で信仰生活を送っています。祈りが聞かれたと言って喜び感謝し、祈りが聞かれないと言って落胆し神の愛を疑うのです。

 

 神の子どもは、この世の寄留者です。この世は、私たちを満足させ平安を与えてくれる場所ではないのです。この地上のことで本当の希望を見つけられるものではありません。

 アブラハムたち神の約束を直接受け取った信仰者たちも、この世でその約束のものを得ませんでした。しかし、信仰によって受け、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。

 

 神は私たちのために、さらに優れたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされることはなかったのです。私たちも約束が実現しないことで嘆いてはいけません。

 神の約束は、黙示録21章にある、天から下ってくる新しいエルサレムによって、すべての契約は全うします。その時、アブラハムもモーセもダビデもエリヤもイスラエルも、キリスト者も、死んだ者が甦り、その契約の成就を見、神が与えられた希望(神の約束)が全うするのを見るのです。

 まことの神にある信仰者、すべての聖徒は死んだ者も生きている者も、神の用意された永遠の都で、神の真実をたたえ、神の用意された平和な世界を楽しむのです。

 

 万軍の主キリストは、アブラハムに約束されたエジプトの川から、ユーフラテス川までの土地をイスラエルの領土とし、イスラエルの王として、正義をもって地上を治められます。

 

 目の前のことに一喜一憂して、信仰がアップダウンするのではなく、信仰の創始者主イエス・キリストを目の前に置いて、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいていることに希望を持ちましょう。

 

 この世のものよりももっと優れた、いつまでも残る財産を持っているのですから、神が与えられた希望を持ち続けましょう。いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで耐え忍んだ人々のいたことが、へブル10:34に書かれています。

 

 「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。

 あなたがたが神の御心を行なって、約束のもの(永遠の救いと永遠のいのちと永遠の安息)を手に入れるために必要なのは忍耐です。」(へブル10:35、36)

 

 神の与えられる希望を受け取り、しっかりと握りましょう。