「主は主の御声に聞き従うほどに、全焼の生贄や、その他の生贄を喜ばれるだろうか。
見よ。聞き従うことは、生贄にまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(サムエルⅠ 15:22)
人は神への献げ物によって神に受け入れられると思いがちです。それは聖なる神の御前に出るために大切な物ですが、神が喜ばれるのは、献げ物や贈り物ではなく、その人自身のあり方のようです。
「主への火による献げ物として、その生贄から内臓をおおっている脂肪と、内臓についている脂肪全部、二つの腎臓と、それについていて腰のあたりにある脂肪、さらに腎臓といっしょに取り除いた肝臓の上の小葉とを献げなさい。
祭司は祭壇の上でそれを食物として、火による献げ物、なだめの香りとして、焼いて煙にしなさい。
脂肪は全部、主のものである。あなたがたは脂肪も血もいっさい食べてはならない。」(レビ3:14-17)との命令があります。
脂肪は主のものです。人には食べることが許されていません。脂肪は、主へのなだめの香りの火による献げ物です。それは主に喜ばれる献げ物であり、主へのなだめの香りでした。
神の怒りを和らげ鎮める良き献げ物であり、神に喜ばれるのにこれ以上ない献げ物でした。
しかし、神は言われます。
「見よ。聞き従うことは、生贄にまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」
「見よ。」とは、神が人々に知らせたいことです。人々に知って欲しいことです。「このことを知りなさい。」と、強く命じておられることです。
神の心をなだめ、神がお喜びになる雄羊の脂肪よりも、神は、人が神のことばに耳を傾けることを願っておられるのです。
神のことばに聞き従うことは、どんな犠牲にもまさっているのです。
人は犠牲を愛のはかりにします。これだけしてあげたのだから、それだけ愛しているんだ。そして、自分の犠牲に見合った報いを求めるのです。
神は、御自分のひとり子を私たちに与えてくださいました。神御自身の最も大切なものです。神の御子イエスは、罪の生贄の神の子羊として屠られ、贖いの血を流されました。人の子となってイスラエルに来られた神のひとり子イエスは、イスラエルの罪の身代わりとなって死んでくださったのです。そればかりか、流された血によって、人の罪を赦し永遠に生きる者としてくださるのです。
しかし、神も神の御子イエスもそれを犠牲だとは思われません。神にとっても、神の御子にとっても、それは喜びであり、愛なのです。
神はこの愛に対して、何を報いとして要求されるのでしょうか。私たちの財産でしょうか。苦行でしょうか。神の奴隷となることでしょうか。
犠牲を払われたのだから、それ相当の報いを要求されるのでしょうか。
神の愛は無条件の愛です。その愛をそのまま信じて受け取ることを望まれるのです。神が望まれるのは、犠牲ではなく、信仰です。
イエスが十字架にかかるために捕らえられたとき、ペテロは三度イエスを知らないと言って、イエスの弟子であることを否みました。
イエスが「まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」とペテロに言われたことばが成就したのでした。
イエスのことばを思い出したとき、ペテロは泣き出しました。「あなたのためには、いのちも捨てます。」と豪語しイエスに忠誠を誓ったペテロでしたが、イエスの言われたとおりに主イエスを否む自分を自覚したのでした。
イエスが死から復活されると、ヨハネの「主です。」との言葉を聞いて、漁をしていた誰よりも先にペテロはイエスのもとに行ったのでした。
イエスが死人の中から甦ってから、三度目に弟子たちにご自分を現わされたときのことでした。
イエスは、シモン・ペテロに言われました。
「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」
ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」
この問答は三度繰り返されました。
イエスが「あなたはわたしを愛しますか」と言われたときの「愛」は、アガペー。神の愛で愛しますか。無条件で愛しますか。とイエスは問われました。
ペテロが「はい。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」と言われたときの「愛」は、フィレオー。友愛をあらわす愛で答えました。
「あなたのためにはいのちも捨てます。」と豪語したペテロに、イエスは「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」と言われていました。
イエスは知っておられたのです。ペテロ本人は知りませんでした。自分は必ずイエスとともに苦難を受ける。死に至るまで主イエスにつき従う、と信じていたのです。
ペテロの中には、自分を捨てるほどの愛がありませんでした。ペテロはわかったのです。自分のうちには、神のような愛は無いのだということを。
三度目にイエスが聞かれたとき、イエスは、アガペー(神の愛)ではなく、ペテロの言うフィレオー(友愛)の愛で愛するかと尋ねられました。ペテロは、自分が友愛の愛で愛していることをイエスはご存じであると告げたのでした。
人は人中で無条件の愛を体験することがありません。必ず何かを要求される世界で生きているのです。他人の評価にさらされながら成長しています。それゆえ、神に対しても条件つきの愛で愛します。神がこうしてくださったなら、愛されていることを信じます。神のために私はこれだけの犠牲を払っています。お返しに何がもらえますか、というようにです。無条件の愛は神の愛です。
ペテロは犠牲を払ってでもあなたに従います、あなたのためにはいのちも捨てます、と豪語したものの、主イエスよりも自分のいのちを愛していることを悟ったのです。
自分の中には、イエスのような愛がないことを認めたペテロでしたが、イエスが約束された聖霊を受けると、イエスが問いかけられたとおり、神の愛でイエスを愛する者とされたのでした。
聞き従うことは生贄にまさる、と仰せられる神を、マルタとマリアの姉妹の話で理解できます。
姉のマルタは、イエスをもてなすために気が落ち着かず、せわしく働いていました。それに対して、妹のマリアは、イエスの足元に座り、イエスのことばに耳を傾け、聞き入っていたのです。
とうとうマルタは、イエスに、妹のマリアにもおもてなしの手伝いをするように、妹に言ってくださるよう頼みました。この世の価値観では、マルタの言うことはもっともなことです。お客さんのイエスのもとに座って何もしないなんて、なんと気の利かない妹でしょう。役に立つしもべとは思われません。
しかし、気を使うマルタにイエスは言われました。
「マルタ、マルタ。あなたはいろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリアはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(ルカ10:41,42)
イエス・キリストの父なる神は、犠牲や生贄よりも、神のことばに耳を傾け、神のことばに聞き従うことを望んでおられるのです。
神を思う人の働きは、友愛の愛です。イエスへの愛です。しかし、神のことばに耳を傾け聞き従うことは、神の愛です。御霊によって得られる天の御国の愛です。
肉なる人は、地上の愛をもって神に近づきますが、御霊の人は、神に喜ばれる御霊のうちにあって天上の愛をもって神に近づくのです。