「『すがるな。味わうな。触るな。』というような定めに縛られることは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などにゆえに賢いもののように見えますが、肉の欲しいままな欲望に対しては、何の効き目もないのです。
こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともに甦らされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。
あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。
あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。
私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。
ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。このようなことのために、神の怒りが下るのです。
あなたがたも、以前、そのようなものの中に生きていたときは、そのような歩み方をしていました。しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。
互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。
新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」(コロサイ2:21,23、3:1-10)
仏教など多くの宗教は、目に見えない力ある存在を拝みます。教祖とされる人が、その存在を知り、その目に見えない救いを与える存在を人々に知らせ、人々をその存在のもとに導きます。釈迦は瞑想の中でその存在を悟りました。
しかし、イエス・キリストの場合は、初めから神の御子であられて、天地万物を造られた父なる神と永遠の昔からともにいた神のひとり子です。御子であるイエスは、天地創造のとき、神とともにおられ、神とともに造られました。創造のわざをともに行ない、ご覧になっておられた天上の神の御子です。
つまり、天地創造の霊なる神御自身が、肉体を持つ人の子となられて、ユダヤ人の間に住まわれたのです。
神のご性質とご神格を持つ神の御子、つまり、天の神の御子ご自身が、人の姿で現れて、神のことばを語られたのです。
瞑想の中で、悟ったことばではありません。イエスご自身が目で見たもの、聞いたもの、触ったものを、そのまま証されたのです。イエスは、まことの神であられるエホバの証人です。エホバを知っておられるイエスだけが、果たすことのできる務めです。ほかには、エホバの証人はいません。だれもエホバを見たことも、エホバの御声を聴いたこともないので、証人となることはできません。
イエスのことばは、神の御子イエスの体験談であり、また、直接神から聞いたことです。もし、イエスが「わたしは神を見たこともなく、神を知らない。」と言うならば、イエスは偽り者となってしまいます。神の御子イエスは、ご自分の父である神を証言されたのです。
神は、最初のアダムを創造されました。御子イエスもともに造られました。人は御子によって造られたものであり、御子イエスは人を造られた方でした。
いわば、イエスは、釈迦が瞑想で得た阿弥陀仏側の人なのです。多くの宗教で崇められ、信心の対象とされる霊的存在の側の方なのです。
人となられた唯一の霊的存在です。この霊的存在である神の御子イエスは、御使いや悪霊のような神の被造物の霊的存在とは異なります。創造者側のお方です。イエスが霊的存在の方と言っても、御使いでありません。神の御子なのです。神格を持つ神の御子です。
イエス・キリストは、まさに、神が人となられた御姿なのです。それゆえ、イエス・キリストのことばは地に落ちることがありません。ことごとく成就する、真理のことばなのです。
神は、初めに土から人を造られました。第一のアダムは、肉なる人です。朽ちて行く肉であり、土の性質を持ちます。
神は、土から取られた人の中に、神が聖別したイスラエルを造り、そのイスラエルに、新しい人を造られました。第二のアダムは、土の性質を砕き、肉に死んで御霊によって新しく生まれる神の御子イエス・キリストです。
御子イエスは十字架で罪の力を滅ぼし、死に打ち勝って、聖霊によって死から甦られました。イエス・キリストを信じ、御霊によって新しく生まれる人は、第二のアダムの性質がかたち造られるのです。
御霊は、イエス・キリストを信じる者に、神の怒りを受ける古い人の性質と行ないを脱ぎ捨てさせて、キリストの性質の新しい人を着させます。
新しい人を着たその人は、キリスト・イエスの血によって罪に死にました。罪に死んだ新しい人のいのちは、死から甦られたキリストとともに、神のうちに隠されてあるのです。
新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至ります。真の知識は、神を否みません。地上のものを思わず、天にあるものを思う人となるのです。
新しい人は、この世と調子を合わせることに困難を覚えます。天上のことを思っているからです。神の御心は何か、何が良いことで、神に受け入れられ、真実なものであるかを知る知識を求めているからです。
キリストを仰ぐ人は、神の御座の右に座しておられる永遠のいのちを思っているのです。イエス・キリストご自身が永遠のいのちなのです。イエス・キリストを愛する人は、永遠のいのちの中にいる人です。
私たちが信じるイエス・キリストは、天上のものです。地上にいながら、私たちは天上のものを夢見て、天上を慕っているのです。私たちは、むなしい夢を見ているのではありません。
私たちのいのちであるキリストが再び地上に現われると、そのとき、キリストとともに、天上に上った魂は栄光のうちに地上に戻ってきます。死なない新しい霊のからだで神の栄光と神の真実を現します。
また、キリストを信じる者たちが死者の中から甦り復活の新しいからだの新しい人となるのです。