ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

天の神は聖なる神

 

 「あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。」(レビ19:2)

 

 どの神が「わたしは聖である。」と言うのでしょうか。「聖」であることを要求する神々は、ほかにいるでしょうか。

 

 聖とは、偽りのないことです。悪も汚れも、迷いも不純もないことです。騒がしさがなく、静寂と威厳があります。

 

 天地万物を造られた創造主なる天の神は、暗いところが一つもない、澄んだ聖なる神です。神のおられる天は、聖なるところです。全き光です。この世で知る「聖」をはるかに上回る聖さで、人間には想像することすらできません。まことの神だけが持っておられる聖さです。

 

 この全き聖の御前では、いかなるものも、しおれてしまいます。不純物は焼き尽くされます。全きものではない被造物は、この「聖」の中で生きることができません。

 

 天の神は、この世の神々とは異なります。この世の神々は、人の手で作られたり、悪しき霊によって現されたものであり、まことの神の御前では存在すらできないものなのです。この世で存在することができても、永遠に続く聖なるまことの天には入ることもできません。

 

 「イスラエルの神」と名乗られて、イスラエルを導かれる神が、実は、まことの天の神御自身です。永遠に生きておられる霊的な存在であり、天地万物の創造主、そして、主権者であり、すべてのものを天の神の基準で裁く権威を持っておられる裁き主でもある方です。

 

 人々に噂されている「最後の裁き」を執り行われるのが、永遠に存在される天の神です。その裁きは、天の神の基準によって裁かれます。天の神の基準とは、罪のない全き聖のことです。

 

 「主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。」と、天の神は仰せられます。天の神に受け入れられる者は、聖なる者です。天の神が聖なる者と認められる者は、裁きが免れて、天の御国に入る神の子どもとされます。神の子どもである以上、天使よりもすぐれた者でなければなりません。

 

 つまり、神は、裁きが免れて救われる人に、天の神に仕える天使の聖さ以上に、神の御子イエス・キリストの聖さに等しい聖さを要求されるのです。

 

 神は、イスラエルに、聖なる神の子羊を遣わされました。イスラエルの罪を取り除く聖なる贖いの子羊イエスです。天の神は、御自分の民イスラエルに、神の贖いの子羊イエスを十字架で屠らせなさいました。神の子羊イエスの贖いの血が流されました。

 

 天の神が用意された贖いの子羊の血は、律法を守ることのできない、神の法に到達できないイスラエルの罪を贖い、法を犯す律法の違反の呪いを砕かれました。神の子羊キリスト・イエスの贖いの血は、イスラエルの罪を贖いました。すべての罪のための生贄が屠られて、イスラエルは罪を赦されたのです。天の神が神の子羊イエスの贖いの血によって罪を赦し、義とされたのです。

 

 天の神の「義」とは、神の子羊イエスの十字架のわざによって、悪魔の呪いを打ち砕き、悪魔の仕業を踏み砕かれたことです。神の義(神の御子イエス・キリストの十字架の贖いのわざ)は、悪魔を裁きました。悪魔は、神の御子キリストにおいて、不義が認められて、裁きが定められたのです。

 

 自由奔放にこの世で働いてきた悪魔ですが、神の御子キリストによって罪に定められて、悪魔の滅びが確定しました。

 

 天の神は、神の御子キリスト・イエスの犠牲によって、イスラエルを滅びの悪魔の手から救い出されたのです。神の愛は、神の御子イエスを通して、イスラエルに現わされました。神の民イスラエルは、神の子羊イエスの贖いの血によって罪が赦され、神に義とされたのです。律法の違反の呪いは、もはや彼らを追っては来ません。神に義とされた者を、不義に定めるものは、この世にも天にもありません。

 

 神の愛によって、イスラエルは新しく生まれました。イスラエルとは神の選びの民のことです。アブラハム、イサク、ヤコブの血肉の子孫(血肉のイスラエル)の垣を超えて、イスラエルの神が遣わされた救い主、神の御子イエス・キリストを主と告白する民のことです。

 

 天の神は、神の子羊イエスをイスラエルに遣わすことで、御自身の愛を現わされました。そして、神の御子キリスト・イエスを信じて心に迎える者を、神の愛の交わりの中に入れてくださるのです。

 

 天の神は、新しく生まれたイスラエルと、契約を結ばれました。彼らを、神の御子キリストのからだに加えるためにです。彼らとは、神と人としての関係ではありません。血肉のイスラエルとは、神と人としての関係を保たれました。神とイスラエルを繋ぐものは、肉の割礼と律法でした。

 

 しかし、天の神は、新しく創造されるイスラエルと新しい契約を結ばれたのです。神は、神の御子キリストを信じる者のうちにキリストの御霊を与えられます。新しいイスラエルに与えられるキリストの御霊は、新しい心の割礼であり、天の御国の律法です。神と神の子どもの関係を築かれるのです。天の神が、彼らの父となり、イエス・キリストが長子となる神の家族が造られるのです。

 

 「あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。」と命じられた血肉のイスラエルは、律法の違反者として苦しみました。天の神の要求される「聖」を得ることができません。肉の力では、天の神の命じられる聖さに到達することができません。

 

 天の神は、神が遣わされた神の御子キリストによって新しく創造されるイスラエルを、キリストの御霊によって新しいものに生まれ変わらせて、新しく創造してくださいます。

 

 主キリストを信じる者に与えられる御霊は、人のうちにあって、肉に死んで霊にて生きる者としてくださいます。

 天の神が遣わされる御霊は、まず、イエス・キリストを主と告白する者のうちに来て、肉なる生き方を選ぶ肉の思いを死に追いやってくださいます。肉の力でやることをことごとく砕かれます。失望と悲しみと失意と嘆きの末、自分自身に対する自信を取り除かれ、神に信頼する新しい人に生まれ変わらせてくださるのです。

 

 キリストの御霊によって新しく生まれた霊の子は、御霊によって、御霊の力が増し加わり、天の御国の識別力や御霊の愛がかたち造られていきます。自分の知恵や知識ではなく、御霊が教える知識によって知恵を得ていきます。

 

 御霊が本人の知らないところで風のように働き、気づいたときには、神を愛する天上の歩みを始めているのです。

 

 天の神は聖であるから、天に引き上げられる霊的なイスラエルもまた、御霊によって、聖なるものとされるために新しい創造を受けるのです。

 御霊によって新しく生まれ自由にこの世を動き回っていた芋虫の時代は、いつも鳥(悪魔)に食べられる危険を伴っていました。しかし、自分の十字架を負ってさなぎとなった人は、自分の思い通りにならない不自由の中で、肉が砕かれ、蝶(自由の子)となるために肉に死んだ者とされます。

 しかし、肉に死んで御霊のものに思いを向け、主キリストに心に止める者に成長すると、自由の子とされます。祈りは聞かれ、いのちを得て救いを確信し、喜びに満ち溢れます。

 

 天の神の御前に立つ神の御子キリストのからだに加えられるからです。キリストの御霊によって新しく創造された魂は、イエス・キリストの聖の中に入れられるのです。イエス・キリストの聖は、内なる御霊のうちにあるからです。

 

 天の神は、聖なる神です。聖なる神は、神の御子イエス・キリストによって新しく創造されるイスラエルに、キリストの御霊による「聖」を用意しておられます。

 天の御国に引き上げられる新しいイスラエルは、キリストの御霊を受けて、イエス・キリストに似たものに造り変えられて、聖なる天の神から、永遠のいのちを得るのです。