ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

十字架は永遠のいのちのため

 

 四百年間エジプトで奴隷であったユダヤ民族が、神に立てられたモーセにより奴隷の家エジプトから脱出して、ユダヤ人の先祖の地カナン(現イスラエル)に向かって、荒野を旅しました。

 

 神はイスラエルに羊を屠って羊の血を家のかもいと門柱に塗るように命じられました。その日真夜中になって、御使いがエジプトの地を巡り、血のしるしのあるイスラエルの家を過ぎ越し、しるしのないエジプト人の家々の初子を打たれました。エジプト人の家で死人の出ない家はありませんでした。エジプト人たちは泣き叫びました。イスラエルの家には静寂がありました。こうして、神は、イスラエルの家とエジプト人の家とを区別されました。

 

 イスラエルは、追って来るエジプトの軍勢から救い出すために神が水を割られた紅海の乾いた地を通って荒野に出ました。神が紅海の水をもとどおりにされたので、あとを追って来たエジプトの軍勢はみな、水死し、イスラエルはその死体を見ました。

 こうして、神は、イスラエルをエジプトと分離されたのです。イスラエルは水をくぐって、奴隷の家エジプトから救い出されました。

 

 イスラエルは奴隷の家を出て、神が先祖に約束しておられたカナンの地を受けるために荒野を旅しました。神は、荒野でイスラエルに会われ、彼らは神に仕える民となるという誓いを立てて、契約を結びました。それで、神はイスラエルに神の民としての掟(モーセの律法)を与えられました。

 

 しかし、イスラエルは神の数々の奇跡を経験しながら、神の良い御計画を信ぜず、荒野の生活をつぶやきました。エジプトにいた方が食べる物もあって良かったと言い、エジプトに戻ろうと考える者も現われました。

 

 神は怒り、つぶやく者たちに毒蛇を送って蛇にかませ、蛇にかまれた者たちは死にました。神に従ってモーセが青銅の蛇を造り、さおに掛けました。青銅の蛇を仰ぎ見る者は生き、仰ぎ見ない者たちは死んでいきました。

 

 荒野で多くのユダヤ人たちは不信の罪を犯しました。神のことばに信頼し続けたのは、カレブとヨシュアの二人だけでした。イスラエルは不信の罪のために、荒野で多く息絶えました。

 エジプトを出た時には成人した男子が六十万人いましたが、カレブとヨシュアの二人を残して、すべての成人男子が不信仰のために荒野で死にました。神の民にとって、不信仰の罪は、致命的な罪です。

 

 エジプトを出て約束のカナンの地に入った成人男子は、カレブとヨシュアの二人だけでした。エジプトの生活を知る民で先祖の神の約束のものを受けた者は、わずかでした。

 

 神は、イスラエルを荒野で死なせるために奴隷の家エジプトから救い出したのではありません。彼らの先祖に与えると約束したカナンの地を所有させるために、イスラエルを奴隷の家から救い出されたのです。

 

 イスラエルの荒野でのつぶやき、「あぁ、神は我々を荒野で死なせるためにエジプトを連れ出させられたのだ。」と言った言葉の通りになりました。イスラエルが信じた通りのことを、神は彼らになさったのでした。

 

 これらのことは、キリストを主と信じ告白するキリスト者の歩みに言い換えることができます。

 

 イエス・キリストが贖いの血を流された十字架の赦しのわざを信じたクリスチャンは、神に従う者となるという誓いをもって、水のバプテスマを受けます。この誓いは、闇の世と分離することを意味します。

 

 主イエスを信じて罪が赦され、水のバプテスマの誓いによって、神に義とされました。水のバプテスマを受けた者は、闇の世から出て、光の主に向かう者です。

 

 闇の世は光の子らに立ち向かいます。神は、闇の世に勝利する者とするために、彼らに、キリストの御霊を授けられます。イスラエルが荒野でモーセの律法を受け取ったように、キリスト者は聖霊のバプテスマによって、心の律法(御霊)を受けます。

 

 肉の性質は御霊に逆らいます。御霊を受けたから罪を犯さないわけではなく、勝利者になるのは容易ではありません。神は肉なる者の弱さをよくご存じです。

 荒野でモーセが掲げた青銅の蛇を仰ぎ見れば、罪のわざわいの中にいるユダヤ人が死なずに生きたように、十字架の主キリストを仰ぎ見て罪を言い表わし赦しを請う者を、神は何度でも赦してくださいます。

 

 イエス・キリストがこの世のものでなかったように、イエス・キリストを信じる者たちもまた、この世のものではありません。世の君(悪魔)は、キリスト者を憎み、キリストへの信仰を打ち砕こうと何度でも攻撃を仕掛けて来ます。

 

 キリスト者をあの手この手で誘惑し、うまくいけば、彼を死に追いやることができるのです。世の楽しみを与え、神に従う人生は惨めで格好良くないと思わせます。彼らの関心事を永遠のいのちからこの世の誉れに向けさせます。この世に評価されることこそが本物の証であり、真実なものであると思い込まされます。そして、信仰を捨てさせます。

 

 思い出してみましょう。神がイスラエルを奴隷の家エジプトから連れ出されたのは、奴隷から解放するためだったのでしょうか。いいえ、彼らを、約束の地、先祖の眠るカナンの地を得させるためだったではありませんか。

 

 多くの人は、思い違いをしています。私たちが十字架の主イエスを信じたのは罪が赦されるため、神に義とされ裁きを免れるためだと思っています。

 神の約束は、「神の御子イエス・キリストを信じる者に永遠のいのちを与える。」なのです。

 

 出エジプトしたイスラエルは、目的を見失ってしまいました。カナンの地を受けるという約束を見失っていました。先祖に約束されたカナンの地を受け継ぐという望みを捨ててしまいました。それで、現状に我慢できなくなってしまい、つぶやき、不信仰となって、神を怒らせました。その結果、彼らは、カナンの地に入ることができませんでした。

 

 イエス・キリストと契約を結ぶ新しいイスラエルの目指すものは、永遠のいのちです。神の御国を受け継ぐことです。それは、今の世の終わりを迎えたあとで現われるキリストの平和な国に入って確かなものとなります。

 この世で実現するものではありません。私たちは、目に見えないものを信仰によって、待ち望んでいるのです。

 

 たとい、この世がますます悪いものとなって、聖なる望みがむなしく感じるとしても、神のことばは必ず成就します。

 

 不信仰によってつぶやき、荒野で死んでいったイスラエルのようになってはいけません。たとい、現状は厳しくつらいものであっても、信仰の灯を灯し続けたカレブとヨシュアの二人のように、約束のものを手に入れるまで、神のことばを信じ続け、助け主御霊とともに歩み待ち望みましょう。

 

 信仰の父と呼ばれるアブラハムも、約束のものを手に入れることはありませんでした。預言者たちもダビデも、約束はいただいていましたが、彼ら自身がその約束のものを見ることすらできませんでした。彼らは、イスラエルに遣わされた神の御子イエスのことばを聞くことができませんでした。

 イエスの弟子たち、復活のイエスを熱心に宣べ伝えた使徒たちも、聖霊のバプテスマを受けましたが、キリストが治められる平和な世の実現を見ずして死んでいきました。

 

 イスラエルが奴隷の家エジプトから連れ出されたのは、約束の地カナンを所有するためでした。

 キリスト者が十字架の主イエスを信じたのは、永遠のいのちを得るためなのです。

 

 キリストの十字架のわざで罪赦されて終わりではありません。罪を赦してくださるイエスの十字架を仰ぎ、神に義とされて世の罪から分離されて、罪の世から救われて終わりではありません。

 

 神の約束は、永遠のいのちなのです。永遠のいのちを得るために、最後まで、失望せずに祈り待ち望みましょう。

 

 「信仰がなくては、神に喜ばれません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(へブル11:6)

 

 「あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神の御心を行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」(へブル10:35,36)