ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

選ばれる者は少ない

 

 「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。」(マタイ22:1,2)とイエスは、祭司長や民の長老たちに言われました。

 

 どうして、招待されていたお客(ユダヤ人)は、王に招かれた王子の祝宴に来たがらなかったのでしょうか。

 イスラエルの神に仕えるユダヤ人たちは、王子を知りませんでした。イスラエルは王である神を知っているつもりでしたが、神(王)が天から遣わされた神の御子イエス(王子)を、神のひとり子として悟ることができませんでした。

 神のことばを知っており、預言者たちの預言を信じて神が遣わされる主キリストが現われることを信じ待ち望んでいたのに、目の前に現われたイエスが、預言の成就の主キリストであることを悟ることができませんでした。

 

 彼らの思いは、世のことでいっぱいでした。天の事柄よりもこの世でどう生活が守られて生き延びるかに、心は占められていたのです。

 祭司長や民の長老たちは、イエスの語る真理を憎んでいました。イエスは、自分たちが良いと思って仕えている神像と全く異なることを語り、権威ある祭司長や民の長老の行ないを神が受け入れておられないかのように、否定したのです。正規の学びもなく、卑しいナザレ人のイエスがどうして神の御子だと言うのでしょうか。

 

 イエスは、神を「わたしの父」と呼び、自分は神のことばを語っていると言うのです。また、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)と、自分自身を真理と言い、真理の神と等しい者とするです。

 祭司長や民の長老たちが、民の指導者ではありませんか。なぜ、ナザレのイエスは、権威者のように振る舞うのでしょうか。どうやって、神から権威を受けたというのでしょうか。祭司長たちが知らないことを、彼は知っているというのでしょうか。神にも、神が権威を与えておられる祭司長に対しても、イエスは不遜の罪を犯しているのです。最高議会で裁かれるべき、神を冒瀆する罪です。

 

 彼らは、神の御子イエスを侮りました。神の御子を蔑むことは、父である神を侮ることです。神を知らないのは、イエスではなく、祭司長たちの方でした。真理を悟らないのは、イエスではなく祭司長たちの方でした。王子を遣わした王である神は怒って、祭司長や民の長老たちを天の御国にふさわしくない者とされたのです。

 

 それで、彼らに代わって、宿営の外の大通りで良い人でも悪い人でも出会った者(異邦人)を集めて、王子の祝宴の会場はいっぱいになりました。

 

 王(父なる神)は、集められた客を見ようと入って来ると、婚礼に招かれた者に用意されていた礼服を着ていない者がいたので、彼を外の暗闇に放り出されたのです。

 

 「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」(マタイ22:14)これは、この天の御国のたとえ話の最後に言われたイエスのことばです。

 

 イエスは、父のことばを話していると自分で証言しておられます。つまり、イエスのことばは、父なる神のことばです。真理のことばです。

 「選ばれる者は少ない。」というのは、真理です。

 

 神がモーセを立ててユダヤ人を奴隷の家エジプトから救い出し、先祖に約束したカナンの地を所有させるために、荒野に導き上りました。

 荒野で、神はイスラエルと契約を結び神の律法を与えられました。イスラエルは神の民となり、神はイスラエルの神となられたのです。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神が、ユダヤ民族の神、イスラエルの神となられました。

 神と契約を結んだあとで、イスラエルは神につぶやき、不信の罪を犯しました。すると、神が怒りをもってイスラエルをさばかれました。エジプトを出たときに、六十万人いた成人男子は荒野で死に絶え、神に信頼した二人の成人男子カレブとヨシュアだけが、約束の地に入ったのです。

 神と契約を結ぶ民であっても、神に背く者はさばかれます。

 

 ローマ帝国の圧政の時代に、神が約束しておられた神の御子キリストがイスラエルに生まれました。しかし、祭司長や民の長老たちは、御子イエスを信じることなく、真理を語るイエスを憎んで、十字架にかけました。

 イエスが死から甦り、墓から復活しても、祭司長や民の長老たちは自分たちの過ちに気づいて悔い改めることなく、頑なにイエスを拒み、御子イエスを信じるユダヤ人たちに殺意を燃やし迫害しました。

 それで、神の御救いは、ユダヤ人から取り去られて、異邦人に及んだのです。

 

 婚礼の礼服を着ていない人は、天の御国から締め出されます。光の中に入ることができません。礼服とは、神が御子キリストを信じる者にお与えになった聖霊です。聖霊によって新しい創造を受けていない者は、外の暗闇に放り出されます。肉の性質のままの人は、光の中に入ることができません。神の御霊によって生まれ、新しく造り変えられた霊の子どもたちが光に入ることができるのです。

 

 神と契約を持つイスラエルは、不信の罪で約束の地に入ることができませんでした。招かれていたユダヤ人たちの多くが荒野で死にました。神は真実な方だから、契約の民であれば悪い者もすべてカナンの地に入れて、その約束を果たされるということではないようです。

 神の真実は、信仰によって神と繋がる者に現わされるのです。

 神は真実な方ですから、契約を結ぶ神の民イスラエルも、神の御子イエスを信じる主の民も決して捨てられません。ですから、神は、彼らに悔い改めの時を用意しておられます。その神の憐れみを無駄にしてはいけません。

 「私たちが自分の罪を言い表わし悔い改めるならば、神は真実で正しいお方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめくださるのです。」(ヨハネ一1:9)

 

 民族あげて救い主を待ち望んでいたイスラエルは、神の遣わされた主キリストを信じることができずに、イスラエルの国から諸国へ散らされました。御子イエスを信じなかったイスラエルは、持っていたもの(先祖の地の所有)を取り去られてしまいました。

 

 出エジプトしたイスラエルに、神は、神を信じ従うことを要求されました。約束のカナンの地に入った成人男子は、神に信頼したカレブとヨシュアの二人だけでした。

 

 神の子羊イエスを迎えたイスラエルに、神は、神の御子イエスを信じることを要求されました。ほとんどのユダヤ人は、御子イエスを信じることなく、神の怒りを買って、諸国に散らされました。御子を信じて聖霊のバプテスマを受けたユダヤ人は、使徒たちと一部のユダヤ人だけでした。神に招かれていた神の民なのに、天の御国に入る者はわずかでした。

 

 イエス・キリストの御霊によって、主イエスにふさわしい霊的イスラエルがかたち造られます。異邦人の中にも、御霊によって新しく生まれる者たちが起こり、「アバ、父。」と神を呼ぶ神の子どもたちが創造されます。

 

 御霊によって生まれる者が、天の御国に集められる神の子どもなのです。イエス・キリストを信じる者の中で、御霊の新しい創造がされます。しかし、御霊によって生まれた者がすべて天の御国に入るのではありません。

 御霊の教会は、黙示録2,3章にあるように、信仰の勝利者の集まりです。主イエスを信じ、キリストの御霊によって新しい創造を受けて、最後まで耐え忍ぶ者たちです。

 

 御霊によって生まれた者は、神の霊を宿す人です。神の霊に、世の霊(悪魔)は敵対します。私たちは、神が遣わされたもうひとりの助け主(キリストの御霊)によって助けられなければ、勝利することができません。

 私たちの主イエス・キリストが天に上られた今、地上に来られたキリストの御霊にすがって信仰を保つ者が、天の御国に入る信仰の勝利者としての恵みをいただくのです。

 

 「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない。」は、神のことばであり、真理なのです。