ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

永遠のいのちを得るためにはどんな良いことをしたらよいのでしょうか

 

 「ひとりの人がイエスのもとに来て言った。『先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。』

 イエスは彼に言われた。

 『なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。』」(マタイ19:16,17)

 

 イエスのもとに来た人は、永遠のいのちを得たいと願っていました。彼もユダヤ人です。神の民の一員です。

 

 そのユダヤ人は、永遠のいのちを得るためには、良いことをしなければならないと考えました。イエスは、ユダヤ人の指導者たちの教えでは神に義とされないことを語っておられました。

 

 イエスは、「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に入れません。」とユダヤ人の群衆に語っておられました。(マタイ5:20)

 

 律法学者やパリサイ人は、ユダヤ人たちに聖書を教える指導者で、モーセの律法を守ることに厳格な人々です。しかし、その律法を守ることは容易ではありません。完全に守れる人はいません。たった一度嘘をつけば、その人は律法の違反者です。

 民衆は、律法学者やパリサイ人たちの教える義には到達できません。神の民なのに、みな失格者です。しかし、神を恐れるユダヤ人たちは、神に受け入れられる者になりたいと願っていました。

 

 パリサイ人たちの律法を守る義に及ばない民衆は、望みが薄く弱り果てていました。しかし、イエスは言われたのです。律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、決して天の御国に入れない、と。

 

 律法学者やパリサイ人の義にまさる義とはどういうことでしょう。モーセの律法の外に義があるのでしょうか。義なる者でなければ、義なるイスラエルの神に受け入れられないことは知っています。神に受け入れられなければ、神の国に入れないことも知っています。

 

 天の御国が約束され、地上の諸民族と分離されたイスラエルです。そのイスラエルが神の義と信じて来た、神の民に与えられた神の律法を守る者の義では、天の御国に及ばないとイエスは言われるのです。

 神の律法は、ユダヤ人が神に選ばれた者であることの証でした。神に与えられた律法は、滅びゆく世にあって救いを受ける神の民の希望でした。

 

 律法を守ることができなくても、律法の違反者であっても、神に約束された神の民としての希望はあったのです。しかし、イエスは、その一縷の望みを破られたのです。

 ユダヤ人は神と契約を結ぶ民ではないですか。神に選ばれた民ではないですか。神の律法を持たず、天地万物を創造されたまことの神である主(イスラエルの神)から遠く離れた異邦人とは違います。

 それなのに、イエスは、イスラエルに与えられた律法の義を否定されるのですか。私たちユダヤ人は、欠けだらけですが苦心して神の律法を守ろうと努力しているではないですか。神を恐れているからです。神を恐れない異邦人とは違います。

 

 ユダヤ人は、永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのか、と考えます。律法学者やパリサイ人の義にまさる義を得るためには、どんな良いことをしなければならないのでしょうか。

 

 イエスは言われました。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。」

 

 人は、神のことばから外れたアダムの子孫です。堕罪のアダムの性質を受け継ぐものです。生まれながら死に定められた原罪を抱える罪人です。

 その罪人の中に、神はユダヤ民族を造り、聖なる神の民イスラエルとされたのです。神は、神の民として聖別したイスラエルに、神の法(モーセの律法)を与え、地上にあってまことの神を恐れる正しい群れとされたのです。

 

 善悪を知る知識の木の実を食べた人は、神の知恵と知識を失い、蛇(悪魔)の与える肉の思いに従って生きる者となりました。彼らは神に尋ねません。自分たちで善悪を判断しようとするのです。彼らの善悪は、死の伴うものです。神から出ていないものは罪でり、罪の報酬は、死だからです。良いことを求めても、その良いものも彼らの善悪の知識から出たものです。いのちの神に繋がるものではありません。

 

 神の民ユダヤ人でありながら、彼は、善悪の知識の木の実によって生きていました。いのちの木には遠く及びません。彼は、いのちを求めるのではなく、神に受け入れられるための良いことを求めたのです。

 

 イエスは原罪の肉のからだで生まれましたが、霊においては、いのちの木の実で生きる者でした。神の御子イエスはいのちの神に繋がる者です。イエスは、アダムのように蛇の言葉に従って神のことばから外れる者ではありませんでした。

 水のバプテスマを受けた時、聖霊を受けられたイエスは、荒野へと聖霊に導かれて行って試みに会われました。そこで悪魔の誘惑の言葉を、神のことばをもって退けられたイエスは、アダムとは全く違いました。イエスは神のことばから外れる者ではありません。神のことばを忠実に守る者でした。イエスは、神が罪人の救いのために用意された贖いの神の子羊でした。天から遣わされた救い主、第二のアダムなのです。

 

 アダムの罪によって死んだ罪人たちを生かすために、神が造られた第二のアダムです。神は、神のひとり子を処女から生まれる肉体の人の子として創造されました。

 

 イエスに良いことを尋ねても、答えてくださいません。イエスは、善悪の木の実を退けるお方です。イエスは、自分で良いことを判断する方ではありません。

 イエスは、良いお方を告げ知らせる方です。その良いお方はひとりしかいません。その良い方のうちに、永遠のいのちを得るための良いことがあるのです。求めなければならないのは、良いことではなくて、永遠のいのちを与える良い方、まことの神のことばなのです。

 

 アダムは神のことばから外れていのちを失いました。神が天から遣わされた第二のアダム(イエス・キリスト)は、神のことばとして地上に来られました。

 神のことばから外れたアダムの子孫が、イエス・キリストによって神のことばのうちに帰り、いのちに繋がるためです。

 

 神が遣わされた神の御子イエス・キリストを信じることが神のことばのうちに帰ることであり、神が遣わされた聖霊(キリストの御霊)を受け御霊に聞き従うことが永遠のいのちを得ることなのです。

 

 イエスは、「いのちに入りたいと思うなら、神の戒めを守りなさい。」と言われました。

 イエス・キリストを信じること、キリストの御霊を受けることが神の戒め、神の命令なのです。

 

 イエス・キリストは、神のことばのうちを歩み、律法学者やパリサイ人たちも完全に守れなかった律法を完全に守られました。神のことばのうちには罪がありません。イエスは、罪のない者として歩まれました。

 

 罪のないイエスが、贖いの子羊として十字架で罪の贖いの血を流されました。神の子羊イエスは、律法の違反の呪いを砕き、死と滅びに勝利して、死から甦り栄光のからだで復活されました。

 イエスは、律法の完成者であり、永遠のいのちを与える救い主です。

 

 神の命令は、「救い主イエス・キリストを信じて従い、永遠のいのちを受けよ。」なのです。

 イエスの命令は、「父が遣わされるもうひとりの助け主、真理の御霊を受けよ。」なのです。

 

 イエスのことばを信じ従うことが、ユダヤ人が尋ねた「永遠のいのちを得る」良いことなのです。

 救い主イエス・キリストを信じることは、ただひとりの良いお方(まことの神)を得ることであり、聖霊を受けることは、神のことばに繋がり永遠のいのちを得ることなのです。