ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

聖なる神に新しく創造される人

 

 人は生まれて成長して人生を体験し、老いて力尽きて死んでいく。

 私は、老いることと死を、退化のように思っていました。それまで出来ていたことが出来なくなる、精力がなくなって後進しているかのように思っていました。しかし、生まれてから死ぬまで進化し続けているとしたら、老いも死も進化の一部であることに気づきました。

 

 死が進化のゴールになるようです。死は人の人生の完成を現わします。

 目に見えるところの肉体の死が、その人の価値を定めるのでしょうか。

 

 人の目には見えない霊なる神は、その人の霊によって評価をされます。評価をされる霊なる神は、人を造られた創造主です。最初の人アダムを造り、人に女(エバ)を造り、子を生み増え広がる機能を造られた神です。

 

 それぞれの民族に、その民族を創造した神という「民族の神」への信仰があるようですが、実は、すべての民族の源であるアダムも、また、神が大洪水によって地上のものを滅ぼされたときに生き残ったノアも、天地万物を創造されたひとりの神によって造られ生まれているのです。

 つまり、すべての民族を造られたのは、永遠の昔からおられる天の神おひとりであるということです。この神は、ユダヤ人が継承してきた「聖書」の神です。

 

 すべての人は、ノアの子孫です。なぜなら、アダムの子孫で生き残ったものは、ノアの家族だけだったからです。

 

 聖書には、民族の成り立ちも書かれています。

 ノアの子ハムの子孫二ムロデが神に敵対して立ち、人々を自分の前に集め神への反逆を促して、力ある者になろうとしました。人々を結集して、バベルの塔を建て始めたのです。二ムロデは、神よりも偉くなろうとする悪魔の性質を持つ最初の権力者でした。

 

 その当時、人の話し言葉は一つでした。一つの民族、一つの国民のような状態でした。神はそれをご覧になって、神に反逆する人の心が一つになることを懸念して、言葉を混乱させられました。

 

 神がこう仰せられたからです。

 「彼らがみな、一つの民、一つの言葉で、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、止められることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らの言葉を混乱させ、彼らが互いに言葉が通じないようにしよう。」(創世記11:6,7)

 

 言葉が通じなくなった人々は、意思疎通を図ることができず、一致できなくなりました。神は、全地の言葉をそこで混乱させて、人々をそこから全地に散らされました。それで、彼らはその町を建てるのをやめました。

 言葉は一つであることで、神に敵対する反逆者が現われ、言葉が分けられることで、反逆者の力は分散され、また、のちに、神に仕える祭司の国民イスラエルを生むこととなります。

 それは、ノアの子セムの子孫ペレグの時代の出来事でした。ペレグとは、「分ける」という意味を持つ名前です。神はセムの子孫ペレグの時代に、それぞれ氏族、国語、地方、国を分けられたのでした。

 

 神は、セムの子孫にアブラハムを生み、イスラエル(ユダヤ民族)を生んでおられます。セムを通して、救いのわざを始められました。

 神は、セム族の子孫イスラエルに主キリストを遣わされるのです。主キリスト(救い主)は、神から出た方です。天の神が遣わされる神のひとり子です。人から出た者ではありません。

 

 世界中に救世主と呼ぶものがいくつもありますが、天の神が救ってくださるという契約を持ち、神の権威を持つ救い主は、イエス・キリストただひとりです。

 

 イエス・キリストに御救いの権威をお与えになった神は創造主であられ、また、ノアの時代に暴虐に満ちた世界を水で滅ぼした聖なる神です。聖なる神は、義なる神です。

 義なる神は、最後の裁きをもって世を滅ぼされます。最後の裁きは、火によって裁かれるのです。ノアの時代に水で滅ぼされた神は、終わりには火で滅ぼされます。

 

 裁き主である神は、御自分のひとり子をイスラエルに遣わし、火で滅ぼす裁きから救われるための救いの道を設けられました。

 それは、イエス・キリストの十字架の死であり、贖いの血です。キリストの贖いの血は、すべての罪を聖めます。聖であることは、聖なる神にふさわしいのです。神は、神の子羊イエスの贖いの血によって神の民イスラエルを義とされます。

 

 イエス・キリストの贖いの血は、義なる神を満足させました。キリストの血は、神の義を具象化しました。神は、神の子羊イエスの贖いの血を義とされ、キリストの血の贖いを信じ神に立ち返る者を義とされます。

 

 神に義とされた人の子(神の御子キリスト・イエスを信じる者)に、神は聖霊を授けられます。聖霊は、神が神のひとり子イエスの血によって義とした人のうちに住んで、人が聖なる者とされるのを助けられます。

 

 義とされた者は、聖なる者とされる必要があります。聖なる神のみもとに帰るためには、聖なる者とならなければならないからです。天の御国は聖なる者の住まいなのです。

 

 世界には多くの神々が存在しますが、「聖」であることを命じる神はいるでしょうか。また、聖とするために、神のほうでその手立てと力を用意された神はいるでしょうか。神は人の知恵や力に頼られません。神は、御心にしたがって神御自身の力で成し遂げられます。

 

 神は、聖霊によって、キリストの血で聖められ神の義とした人を、肉に死んで霊にて生きる者とさせられます。人が自分の肉の力を置き、神の御力によって生かしてくださいと聖霊に自分自身をゆだねる時、彼の命は神の御手の中に入ります。これが、肉に死んで霊にて生きるということです。

 

 人生は死によって完成します。肉(肉の思い、自分の知恵や知識、望み)に死ぬとき、その人の人生は肉の死において完成します。

 そして、神の霊である聖霊を意識して生きる者とされたとき、御霊によって新しく生まれたのです。新しく生まれた者はこの世のものではありません。神の御子を愛し、目に見えぬ神を信じ、神の御霊を心に宿す天上のものとして新しく生まれ、神からいただいた新しいいのちを生きる者とされるのです。

 

 その人のわざではありません。聖霊のわざです。御霊のことばを聞き、イエス・キリストの御思いを知り、真実な神を慕って夢中に一歩一歩神に従う歩みをした結果、気づくと思いが変えられ、習慣が変えられ、心が変えられているのです。

 

 神の御国のことを慕う者に変えられると、価値観も変わってきます。自分の努力で無理やりこの世から移し替えたのではありません。それでは長続きしないでしょう。肉は御霊のものに逆らうからです。

 

 気がついたら、神を思う部分が自分の中で大きくなり、神のものを慕い、真理を喜ぶ者に変えられているのです。聖霊によって新しい人に造り変えられているのです。

 

 神が、土の塵から肉体の人を造られました。

 神の御子が、天上で生きる人の性質を具現化し、キリストの血によって人の肉の性質を破り、天上で生きる者として招いてくださいました。

 聖霊が、神の御子キリストが肉の性質を破られ天上で生きる者として招かれた人のうちにキリストの御霊の性質をかたち造り、天の御国に入るにふさわしい者として新しい創造を施されます。

 

 神は、世に神のひとり子イエスを遣わされ、世の救い主キリストとされました。

 神の御子キリストは、贖いの血を流して救いのわざを完成し、イエス・キリストを信じる者に、聖なる御霊を与えられます。

 聖なる御霊(聖霊)は、心に割礼を与えて、父なる神のために、新しく神の子どもを創造されるのです。

 

 聖なる創造主は、肉の人を、御霊の人に造り変えられます。それは神のわざであり、天上のわざで、まったく新しい創造を完成されるのです。新しく創造された人は、キリストに似た者とされます。

 

 「私たちはみな、顔のおおいを取り除けられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(コリント二3:18)

 

 新しい創造の人には、裁きも滅びもありません。

 聖なる神に新しく創造された人は、永遠のいのちと永遠に生きる栄光のからだをいただき、天の御国に入り安息するのです。