ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

十字架につけろ

 

 「総督は、過越の祭りには、ユダヤ人の群衆のために、いつも望みの囚人を一人だけ赦免してやっていた。

 その頃、バラバという名の知れた囚人が捕えられていた。

 それで、彼ら(ユダヤ人)が集まったとき、総督ピラトが言った。『あなたがたは、だれを釈放してほしいのか。バラバか、それとともキリストと呼ばれているイエスか。』

 祭司長、長老たちは、バラバのほうを願うよう、そして、イエスを死刑にするよう、群衆を説きつけた。

 総督は群衆に言った。『あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放してほしいのか。』彼らは言った。『バラバだ。』

 ピラトは彼らに言った。『では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。』彼らはいっせいに言った。『十字架につけろ。』

 だが、ピラトは言った。『あの人がどんな悪い事をしたというのか。』しかし、彼らはますます激しく『十字架につけろ。』と叫び続けた。」(マタイ27:15-23)

 

 イエスを十字架につけたのは、ローマ帝国ではなく、ユダヤ人たちでした。イスラエル(神の民)でした。

 

 「イエスが多くのしるしを行ない、それを見る多くのユダヤ人がイエスを信じたという報告を受けたパリサイ人たち。群衆がイエスを信じるのを恐れた祭司長とパリサイ人たちは議会を召集して言った。

 『われわれは何をしているのか。あの人が多くのしるしを行なっているというのに。もしあの人をこのまま放っておくなら、すべてのユダヤ人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。』

 しかし、彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。『あなたがたは全然何もわかっていない。ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。』

 ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。

 そこで彼らは、その日から、イエスを殺すための計画を立てた。」(ヨハネ11:47-53)と聖書にあります。

 

 祭司長たちはローマ帝国から手厚い保護を受けていました。もしユダヤ人たちがイエスをキリストと信じるならば、ローマ帝国はキリストの民を取り締まるでしょう。ローマの皇帝カイザル以外に王はいらないのです。イスラエルをローマ帝国の所有としユダヤ民族の会堂は取り払われ、祭司たちの土地は奪い取られることでしょう。

 

 祭司長たちにとってイエスは厄病神です。不都合な存在です。しかし、大祭司カヤパは、役職ゆえの油(大祭司の油)によって預言をしました。

 イエスが死ぬことは、自分たちの立場を守ることができるだけではなく、イスラエルのためであると言ったのです。それは、ローマ帝国の敵となることはイスラエルのためにはならないと考えたからです。

 ローマ帝国の支配を取り除きたいと嘆く民に代わって、イエスひとりが民の代わりに死ぬことは、イスラエルが滅びることから守られることだと考えました。イエスひとりが死んで、国民全体が滅びないほうが、祭司長たちにとって得策なのです。

 

 カヤパの口から出た言葉でしたが、実は、彼は大祭司ゆえに神から与えられたことば(預言)を語ったのでした。つまり、イエスが国民のために死のうとしておられること、ただ国民のためではなくて、散らされている(世界中にいる)神の子たちを(キリストが治めるイスラエル王国の国民として)一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのです。

 

 大祭司も祭司長たちもイエスをキリストだとは認めていませんでした。それなのに、イエスにキリストの役割を担わせたのでした。不思議なことです。まるで大祭司は、イエスを神から出た者、神が遣わした神の子羊であると知っていたかのようです。

 

 大祭司と祭司長たちは、イエスを殺すための計画を立て、群衆を扇動して、その計画をみごと実現させたのです。

 

 「十字架につけろ。」とは、祭司長たちがユダヤ人の群衆の口に与えた言葉でした。また、「十字架につけろ。」と叫び続ける中で、民の心にはイエスへの憎しみと怒りが沸き起こり、それは、イエスへの嘲りとなり、罵りとなり、呪いの言葉となったのです。

 

 イエスはイスラエルのために死なれました。神の民を救うために、民の身代わりとなられたのです。イエスは、国民(神の民ユダヤ民族)のためだけでなく、世界中の異邦人の中に散らされている神の子たちをご自分の民として一つに集めるために、十字架にかかられました。

 

 「十字架につけろ。」と叫んだのがイスラエルならば、キリストの十字架の血によって罪が贖われるのもイスラエルです。また、キリストの十字架の血によって罪が赦されて神に義とされるのもイスラエルです。

 キリストの血によって神に義とされ、キリストの御霊によって新しく生まれるのもイスラエルです。キリストの御霊によって新しく生まれ、御霊による新しい創造を受けて神の子どもとされるのも、イスラエルです。

 イエス・キリストは、この御霊によって創造される神の子どもたちを一つに集めた新しいイスラエルの国王として地上に戻って来られます。

 

 私が聖霊のバプテスマを受けたときのことです。「聖霊様、来てください。」と祈っても何の変化もありません。祈れば祈るほど、聖霊という方のことがわからなくなって、イエス様に叫びました。

 「イエス様、聖書の福音書によってあなたのことは何となくわかりますが、聖霊というお方のことはわかりません。宙を打つような手応えの無いむなしい祈りに思えます。イエス様、助けてください。わたしには聖霊様がわからないのです。」

 

 すると、幻が見えました。イエスが等身大の十字架を背負いよろよろと群衆の中を歩んでおられます。群衆は、口々にイエスを罵り呪いの言葉を投げかけています。それを見て、私の魂は憤って群衆に叫びました。「イエス様はあなたたちの罪のために死なれるのよ!十字架はあなたたちの罪のためなのよ!」

 すると、群衆の中に私の顔が見えました。私は精いっぱいの力を込めて、十字架を背負うイエスを嘲り、醜く歪んだ顔で罵倒していました。

 群衆に憤っていた私の心は、一瞬で止まりました。頭の中は空っぽです。次の瞬間、群衆は目に入らなくなり、自分の心を顧みました。

 「イエス様を十字架につけたのは私だった。」とはっきりと知ったのです。何の理屈もありません。「イエス様、私があなたを十字架につけたのです。私の罪を赦してください。主よ。赦してください。」ただただ、イエスに罪を告白し、罪の赦しを請う私がいました。

 

 イエスを十字架につけたのが私であったと告白し赦しを求めたそのとき、自分の意思ではないのに私の舌が震え、神は、神の与えられる新しい言葉を語る舌としてくださいました。それで、聖霊を受けたことを知りました。

 

 「十字架につけろ。」は神の霊(御霊)に逆らう肉なる者の叫びです。イエスが現われなければ、自分の罪を知ることもなく、また、罪に定められることを嘆くこともないからです。しかし、神の御子イエスは来られました。自分の罪を知ることは、イエスの救いを受けるためです。

 

 イエスを十字架につけたのは、悪魔ではなくて、悪魔に捕らえられた神の民であり、それはまた、神の民の罪が赦されるため、そして、キリストの御霊の新しい創造によって永遠のいのちと栄光のからだを得る神の子どもとされるためでした。