ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

誤解された神の命令

 

 イエスは、パリサイ人と律法学者たちに言われました。

 「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。

 『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、無駄なことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』

 あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」(マルコ7:6-8)

 

 律法を厳格に守るパリサイ人と律法学者たちは、ユダヤ人たちから正しいユダヤ人と思われていました。しかし、神に遣わされて来られた神の御子イエスは、彼らのことを口先だけの信仰だと言って、責められました。

 

 神の御子イエスは彼らのことを、イザヤの預言した「この民は口先で近づき、くちびるでわたしを崇めるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことに過ぎない。」(イザヤ29:13)の預言の成就であると言われました。

 

 イザヤ書の預言には続きがあります。

 「それゆえ、見よ、わたしはこの民に再び不思議なこと、驚き怪しむべきことをする。この民の知恵ある者の知恵は滅び、悟りある者の悟りは隠される。」(イザヤ29:14)

 

 聖書に精通するパリサイ人と律法学者たちは、律法を厳格に守るということにとらわれて、イスラエルの生ける神を見失っていました。

 イスラエルの神は、生きて働かれる神です。モーセの時代の出エジプトのとき、また、紅海の乾いた地を渡り荒野をさまようとき、ヨシュアに導かれカナンの地を占領するとき、多くの奇跡をもって、神は、ヤコブ(ユダヤ民族)の先祖アブラハムに約束されたカナンの地を、イスラエルに得させられました。

 

 イスラエルの神は、ことばを与えて、それを実現される神です。イスラエルに預言者を立てて、預言を与え、預言を成就される、生ける神です。

 

 しかし、聖書を教える立場のパリサイ人と律法学者たちは、生ける神を、律法に閉じ込めてしまいました。神との交わりをふさぎ、律法を守るための教えを組み立てて人間の教えを熱心に教えたのです。

 イエスは彼らに言われました。

 「あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです。」(マルコ7:9)

 

 アダムから神の命令を聞いたエバは、神に尋ねることがなかったようです。エバは神の命令を、神との交わりの中でとらえるのではなく、神のことばを守ることに几帳面なアダムから受けたことばとしてとらえる者でした。

 

 エバは、ことばに信頼する者だったのです。蛇が新しい言葉をエバに語ると、エバはその言葉を信じてしまいました。

 神の霊ではなく、ことばに支配を受ける者は、霊を見分けることができません。神との交わり(祈り)のない者は、ことばが神のようになっています。それゆえ、言葉に騙されるのです。

 

 イエスは、神との交わりのない者の教える神のことばを、人間の私的解釈を加えた人間の教えだと言われました。聖書のみことばを語っているのに、それは人間の教えだと言われるのです。

 

 「あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」とイエスは責めておられます。

 神の戒めとは何でしょうか。聖書のことばではないのでしょうか。

 

 サムエルは言っています。

 「主は主の御声に聞き従うほどに、全焼の生贄や、その他の生贄を喜ばれるだろうか。」(サムエル一15:22)

 

 ダビデは言います。

 「わが神。私は御心を行なうことを喜びとします。あなたの教えは私の心のうちにあります。」(詩篇40:8)

 律法よりも神の御心です。律法が神の御心だと思いやすいですが、律法は神の民のために定められました。神の民が律法のためにあるのではありません。神が律法の主なのです。律法の上に、神がおられ、大事なのは、神の御心なのです。

 

 また、ダビデは言います。

 「たとい私が献げても、まことに、あなたは生贄を喜ばれません。全焼の生贄を、望まれません。

 神への生贄は、砕かれた魂。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それを蔑まれません。」(詩篇51:16,17)

 どんな献げ物よりも、神の前にへりくだる心です。悔いた心、砕かれた魂が、神の受け入れられるもの、神の望まれるものです。

 

 律法を守っていても、私は律法を守っているという高い心があるならば、それは、神の御心を喜ばせるものではありません。自分を正しいとする者は、人の罪を責める立場に身を置き、自分が神に赦された者であることを忘れてしまいます。

 罪を恐れ、憐れみをもって戒めることを、神は望まれます。

 神の御子イエスはだれも罪に定められませんでした。むしろ、「彼らの罪を赦してください。」と、神の憐れみにすがって執り成されたのです。

 

 神は言われます。

 「わたしは誠実を喜ぶが、生贄は喜ばない。全焼の生贄より、むしろ神を知ることを喜ぶ。」(ホセア6:6)

 

 聖書をよく知るパリサイ人も律法学者たちも、神を知る者ではありませんでした。神は憐れみと愛の神です。ナザレのイエスは、パリサイ人たちのように正規の学びをしておられませんでしたが、神を知る者でした。

 

 神を知らない者は、神の御心をとらえることができません。文字に書かれた律法が、生ける神を見えなくさせているのです。神のことば(聖書)を見聞きしているのに、生ける神を見失っているのです。

 

 神は仰せられます。

 「人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」(ミカ6:8)

 

 神は、イスラエルに不思議なこと、驚き怪しむべきことをされました。

 神のひとり子に肉体を造って、イスラエルに遣わされたのです。神格を持つ神の御子を人の子イエスとして、イスラエルにお与えになったのです。

 そして、神は神の御子イエスを、イスラエルの贖いのために、罪の生贄の子羊として、祭司の民ユダヤ人の手で屠らせられたのです。

 

 神は、神の御子イエスを屠らせて、イスラエルの罪の贖いを成し遂げられました。律法を守ることに厳格なパリサイ人と律法学者たち、イスラエルの知恵ある者らの知恵は滅びました。

 

 イエスは、ユダヤ人たちに言われました。

 「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に入れません。」(マタイ5:20)

 

 律法学者やパリサイ人たちの義は、神に受け入れられることなく滅びます。律法を厳格に守る彼らにまさる義は、神が遣わされた主キリストを信じる、信仰の義です。

 イスラエルは律法の違反者です。それゆえ、律法によっては神に義とされることがありません。

 神がイスラエルに用意された神の義は、ナザレのイエスが神の御子キリストであることを信じる信仰の義です。

 イエス・キリストを信じる者は、その信仰によって、神に義とされるのです。イエスを主と告白する者は、神の子羊イエスの贖いの血によって罪が赦された者です。罪の赦された者が、神に不義(罪ある者)とされることはありません。

 

 神は、罪人の罪を赦し義とするために、神の御子イエスをイスラエルに遣わされたのです。神の恵みと慈しみと愛を受け取ることが、神に喜ばれ受け入れられることなのです。

 

 神はこの悟りを、心のへりくだった者、悔いて砕かれた魂に与えられます。心の高い者、自分を正しいとする者、頑なな魂には、この悟り(真理)は隠されます。

 

 文字による神のことば(律法)を語る人間の言い伝えを守ることではなく、生ける神の声に聞き従うことが大切です。文字の教えではなく、霊なる神(聖霊、キリストの御霊)の声を聞いて守り、生ける神の声に従うことが、御霊に導かれ神を見て歩むことであり、神を知ることなのです。

 

 イスラエルの神、万軍の主は、イスラエルに命じられました。

 「わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしは、あなたがたの神となり、あなたがたは、わたしの民となる。あなたがたをしあわせにするために、わたしが命じるすべての道を歩め。(わたしがあなたがたに命じるすべての道を歩んで幸いを得なさい。)」(エレミヤ7:23)

 

 神の御声を聞くことは、私たちのしあわせのためです。神はこの御声を聞く働きとして、私たちにキリストの御霊(聖霊)を与えておられます。