ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

律法と預言者によって証された神の義

 

 「律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められません。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によって証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。

 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:20-24)

 

 神と契約を結ぶユダヤ人たちは、律法を行なうことで、創造主であるまことの神に受け入れられる唯一の神の民であると考えていましたが、肉なる者に律法を完全に守ることは不可能でした。ユダヤ人たちが神の律法を守る努力をしても、神の基準に到達することができません。彼らは、律法によって、かえって罪の意識が生じるばかりです。

 

 ユダヤ人は、律法が与えられているゆえに、律法の違反者として罪の意識が生じ、罪の呪いに苦しみました。律法を完全に守ることのできる肉なる者はいません。律法によっては、神の前に義と認められないのです。自分の不義を知り、罪の呪いに怯えるだけです。

 

 神の義は、律法とは別に用意されました。それは、預言者たちによって証されていた主キリストです。神から遣わされた救い主です。罪の呪いから救い出してくださる、天の聖者です。

 

 神は、約束どおり、イスラエルに救い主キリストを遣わされました。それは、預言書や詩篇、モーセの命令によって証されていた、キリスト(救い主)の油を注がれた神の子羊イエスでした。神の子羊イエスは、イスラエルの民が守れなかった律法を完全に守り、神から律法の義を受けられたただひとりのユダヤ人です。

 

 神は、子羊イエスを義とされました。イエスには、罪が見出されません。全き人です。彼こそが、神がイスラエルに遣わされた主キリスト(救い主)でした。罪のない聖なるイエスを受け入れる者は、神の義を受け入れる者です。神が義とされた子羊イエスを受け入れるならば、イエス・キリストを信じる信仰によって、神に義とされるのです。律法を守れない者は、律法を完全に守られたイエスを主とすることで、イエスの贖いの血の覆いの中に入り、イエスの義をともに受けるのです。

 

 イエスの血は、父なる神に叫んでいます。「父よ。彼らを赦したまえ。」

 父なる神は、イエス・キリストを信じる信仰を、義とされます。神の義は、イエスとともにあり、イエスの御名とともにあります。律法によるのではありません。

 

 神は、律法を守れない肉なる者に、神の御子イエスを信じる信仰による義を用意されました。このことは、律法が与えられているユダヤ人だけではありません。律法を持たない異邦人にも用意された神の義です。

 律法が与えられた神の民も守ることができず罪の中でうめきました。神の民であるのに、神からの栄誉が受けられません。ただ、神の恵みによって、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。それは、すべてのイエス・キリストを信じる人に与えられ、何の差別もありません。

 ひとりのユダヤ人(イエス・キリスト)の従順によって、神の民は贖われ、神に義とされるのです。イエス・キリストを信じる民は、神が義とされる新しいイスラエルです。

 

 「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見逃して来られたからです。

 それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」(ローマ3:25,26)

 

 神は、罪ある者を裁く裁き主です。イスラエルの罪を今まで忍耐をもって見逃して来られました。それは、神御自身の義を現わすためでした。律法を全うした子羊イエスの贖いの血による赦しと、神の御子イエスを信じる者を義とお認めになるためでした。

 

 イスラエルは罪を犯しました。神の民のうちに、神の義とされる者はいません。神の民だから義であるとは言えません。罪あるイスラエルは、神の契約の外にいる異邦人と同じ罪人であり、同じように裁かれるものです。神に選ばれ、神から契約を受けて異邦人と区別された聖なるイスラエルを義とするために、神に遣わされた救い主がイエス・キリストです。

 

 「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。

 人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。

 神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。」(ローマ3:27-30)

 

 ユダヤ人は選民として誇りを持っていました。聖なる神に愛された聖なる民です。神の民です。イスラエルには、全知全能なる創造主の約束があります。聖なる神に仕える特別な民族です。神の契約の外にいる異邦人のように、滅びゆく呪われた者ではありません。神の律法がゆだねられたユダヤ人は、異邦人とは違います。

 しかし、ユダヤ人たちの誇りはすでに取り除かれました。律法が与えられていても、律法の違反者として、神の義とされないことが明らかになったのです。

 

 律法は、イスラエルにとって、神の義とはなりませんでした。

 パウロは言います。

 「もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、御心を知り、成すべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、闇の中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、どうして、律法を誇りとしているあなたが、律法に違反して、神を侮るのですか。」(ローマ2:17-23)

 

 ユダヤ人の誇りはどこにあるのでしょう。それは、律法を行なう行ないの原理ではなく、イスラエルの神がイスラエルに遣わされた救い主イエス・キリストを信じる信仰の原理によって、神に義とされるということです。

 

 神は唯一です。それゆえ、ユダヤ人の神、イスラエルの聖なる神は、異邦人にとっても、唯一の神です。

 神は、割礼のある者(神の契約を持つ選ばれた民イスラエル)を、神の御子イエス・キリストを信じる信仰によって義と認めてくださいます。そして、割礼のない者(神の契約の外にいる異邦人)をも、神の御子イエス・キリストを信じる信仰によって義と認めてくださるのです。

 

 神がイスラエルに与えられた律法は無駄だったのでしょうか。そうではありません。律法を完全に守られたイエス・キリストの贖いによって、神の律法は確立されました。そして、イエスの十字架の贖いの血は、イエス・キリストを信じる者を、律法を守り律法の義を完成されたイエスの義の中に入れてくださるのです。

 

 イエス・キリストを信じる者は、神がイスラエルに与えられた律法と預言者により証された救い主キリスト・イエスによって、永遠のいのちを受ける神の子どもとされます。

 神の義は、神の御子イエス・キリストとともにあるのです。私たちは、イエス・キリストを信じる信仰によって、神の義を得るのです。