ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

肉から霊へ 

 

 エルサレムに上られたイエスは、宮の中で生贄の献げ物を売って商売している人々の台を倒し、「それをここから持っていけ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」と怒り、牛や羊を宮から追い出しました。(弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす。」と聖書に書いてあるのを思い起こしました。)

 ユダヤ人たちは、イエスに言いました。

 「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」

 イエスが、イスラエルの神に遣わされたキリストであることのしるしを求めたのです。

 

 イエスは答えて言われた。

 「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」

 そこで、ユダヤ人たちは言った。

 「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」

 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。

 それで、イエスが死人の中から甦られたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。」と、ヨハネ2:19-22に書いてあります。

 

 律法の奴隷となったユダヤ人たちは、霊で神をとらえることのできない者になっていました。生贄を献げることが神に受け入れられることだと思っていました。

 しかし、モーセに律法をお与えになった神は、生贄よりも、神の御声に聞き従うことを求められる生ける神です。

 

 生贄を献げることで、自分を義とするユダヤ人を神は憎んでおられます。義とするのは神なのです。その神は生贄よりも悔いた心、砕かれた心をご覧になりたいのです。

 

 ゲルジム山で礼拝するサマリヤの女は、礼拝すべき場所はエルサレムだとユダヤ人が言っていることで、本当の礼拝場所はどこなのか、イエスに尋ねました。

 イエスはサマリヤの女に言われました。

 「父を礼拝するのは、ゲルジム山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたち(ユダヤ人たち)は知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。

 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:19-24)

 

 イエスは、神を主とし、神の御主権にへりくだり、真実な心で神の御前に出て、霊とまことをもって礼拝する、信仰の回復の時を告げられました。

 それは、場所ではありません。人間の手で造った神殿でもありません。霊なる神を知り、霊によって神を仰ぎ、心を注いで礼拝する、まことの礼拝を、父のために、キリストであるイエスは導かれます。

 

 イエスが、「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」と言われたのは、ご自分のからだのことでした。イエスは、神の聖霊の神殿としてイスラエルに来られました。イエスのからだは、聖霊の宮であり、神殿だったのです。

 

 霊の神を文字の律法によってとらえ、霊とまことによって礼拝することを知らないユダヤ人たちは、イエスが目の前に建っている神殿のことを言っているのだと思いました。四十六年もかかって建てた神殿を壊せば、イエスが三日で立て直すと言うではありませんか。

 これが、イエスがキリストであるしるしなのでしょうか。ますます、イエスは怪しまれました。

 

 イエスを死刑にするためイエスを訴えて偽証する者の中に、次のように言うユダヤ人たちがいました。

 「私たちは、この人(イエス)が『わたしは手で造られたこの神殿を壊して、三日のうちに、手で造られない別の神殿を作ってみせる。』と言うのを聞きました。」(マルコ14:58)

 

 イエスは、十字架で罪の生贄の子羊の肉のからだを神に献げると、父が新しい霊のからだで甦らせてくださることを言われたのです。これが、イエスがキリストであるしるしなのです。

 

 イエスは肉のからだでユダヤ人の間を歩み、神の神殿としての歩みを弟子たちに示されました。人の手で建てた神殿での礼拝ではなく、自分自身を神殿として神に献げ、聖霊に聞き従う聖霊の宮としての生き方を弟子たちに見せておられたのです。

 

 イエスは、十字架で肉のからだに死に、罪の贖いの血を注いで神の民をきよめ、死に葬られていた魂を贖いの子羊イエスの血で買い戻し、新しい霊のからだ、栄光のからだで甦られました。

 

 肉のからだ(肉体)の神の御子イエスが、悪魔に勝利して、永遠に生きる霊のからだ(復活のからだ)で甦られ主キリストとして完成し、天に上り、キリストの民に聖霊のバプテスマを授けられます。

 

 イエスは、ご自身のからだで、神の子どもの歩みを現わしておられます。

 肉のからだにおいて世の罪に苦しめられますが、聖霊を宿す神の神殿はどこにおいても、主を礼拝し、神の栄光を証します。聖霊は、真理の御霊であられ、真理の光、世の光なのです。

 肉なる者は、御霊によって新しく生まれ、御霊の御声に聞き従う歩みのうちにあって、新しい創造を受けます。

 

 イエスが十字架で死に、三日間墓に入っていたように、肉なる者はこの世の意識を捨て、この世の敵として憎まれます。真理の光に照らされた神の子どもは、罪に抵抗して苦しみこの世の闇と戦い、キリストの血で罪が赦された恵みにすがります。

 

 御霊により、イエスの贖いの血に平安を得、救いの喜びに満たされます。これは、うちなる御霊の働きです。心のうちにある喜びと愛と平安、これは、御霊によって新しく生まれた者のしるしです。

 

 最初の人第一のアダムは土から造られ、神の息が吹き込まれて生きた者となった肉なる人です。朽ちる肉体の中にある魂です。罪の報酬である死と裁きが定まっている魂です。

 

 第二のアダムは、天から来られた神の御子イエスです。肉体を持つ人の子イエスです。霊なる神の御子が肉なるからだで来られました。

 女から生まれたイエスが、律法を全うして、罪の贖いの子羊となられました。子羊イエスの贖いの血は、すべての罪をおおいます。第二のアダムは、罪の呪いを打ち砕き、死から甦られました。父なる神は、子羊イエスの血を聖とし、神の御子キリストを信じる者を義とされます。

 第二のアダムは、生かす御霊です。第二のアダム(キリスト)のからだは、永遠に生きる霊のからだです。肉のからだは朽ちました。永遠のいのちは、朽ちることのない霊のからだに入れられました。霊のからだは、死に勝利したからだです。永遠に生きる栄光のからだです。

 

 神が遣わされたキリスト(イエス・キリスト)を信じる者は、聖霊を受け御霊の新しい創造によって、肉なる者から霊なる者へ造り変えられ、肉のからだが死んでも、霊のからだで永遠に生きるのです。

 

 御霊によって神の神殿となり、永遠のいのちを得た者は、主キリストと同じように、死から復活し、霊のからだによって永遠に生きるのです。