ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

イエスの十字架の血と約束の御霊

 

 「モーセはイスラエルの長老たちをみな呼び寄せて言った。

 『あなたがたの家族のために羊を、ためらうことなく、取り、過越の生贄として屠りなさい。ヒソプの一束を取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血をかもいとニ本の門柱にうけなさい。朝まで、だれも家の戸口から外に出てはならない。

 主がエジプトを打つために行き巡られ、かもいと二本の門柱にある血をご覧になれば、主はその戸口を過ぎ越され、滅ぼす者があなたがたの家に入って、打つことがないようにされる。」(出エジプト12:21-23)

 

 神はアブラハム、イサク、ヤコブの子孫ユダヤ民族を四百年の間、エジプトの奴隷とされました。そして、アブラハムの子孫ユダヤ民族を奴隷の家エジプトから救い出し、アブラハムに約束されたカナンの地へ連れ上られました。

 

 カナンの地は、神がヤコブの子イスラエルに与えると先祖たちに約束しておられた土地であり、イスラエルが所有する地です。カナンの地には、アブラハムと妻サラ、イサクと妻リベカ、ヤコブと妻レアの墓がありました。

 

 神はイスラエルを四百年間の奴隷生活のあとで、エジプトと区別してより分け、エジプトの地の裁きから守られました。そのしるしとして、神は羊の血を要求されました。羊の血は、エジプトを打つ御使いのためのしるしでした。

 神である主が遣わされた御使いは羊の血を見て、血のついた家々を通り過ぎ、血のしるしのない家々に入ってその家の初子を、人の初子をはじめ家畜の初子に至るまで、みな殺しました。

 

 神は、エジプトの地にあって、イスラエルをエジプトと区別されました。エジプト人には贖いの羊を用意させられませんでした。贖いの血のないエジプト人は、罪が贖われることなく、罪の中で死んでいきました。イスラエルには、贖いの羊の血を用意させられたので、その羊の血によって、イスラエルを打つことはありませんでした。

 

 神からエジプトの地を打つように命じられた御使いは、贖いの羊の血を見て、通り過ぎたのです。羊の血の塗られた家の中にいたイスラエル(ユダヤ民族)は、だれも死ぬ者がいませんでした。イスラエルはみな、羊の血によって守られました。

 エジプト全土に神の裁きが下されたとき、羊の血によってイスラエルが区別されて、イスラエルに裁きは過ぎ越されたのです。

 

 羊の血が、この世のひな型であるエジプトと、神の民イスラエルを区別しました。モーセの律法が与えられる以前のことです。律法を守ったから異邦人と区別されたのではなくて、イスラエルが神に従って贖いの羊の血の塗られた家の中にいたので、羊の血によって、この世のエジプトと区別されたのでした。

 

 イスラエルは羊の血によって、エジプトの地に下った神の裁きから守られ、エジプトから連れ出されて、神が与えると約束されたカナンの地に導き上らせられたのです。

 

 エジプトから出たイスラエルの成人男子は六十万人いました。しかし、カナンの地に入る前に、彼らのつぶやきと不信仰ゆえに神に絶たれました。

 

 神は、荒野でイスラエルと神の民族としての契約を結びました。

 神は、モーセを通して、イスラエルに告げられました。

 「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。今もしあなたがたが、まことにわたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。

 あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」(出エジプト19:4-6)

 

 すると民はみな口をそろえて答えました。

 「私たちは主が仰せられたことを、みな行ないます。」(出エジプト19:8)

 

 しかし、民はつぶやいたのです。民はモーセに言いました。

 「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、玉ねぎ、にんにくも。だが今や、私たちの喉は干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。」(民数記11:4-6)

 

 エジプトを離れ、荒野を行くイスラエルは、エジプトを懐かしんだのです。彼らの思いは、カナンの地にありません。神の与えられるカナンの地よりも、出て来たエジプトを慕いました。

 

 主がカナンの地を探らせるために、十二人の斥候を送られたとき、カレブとヨシュアの二人は、地の豊かさを見て、「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」と良い報告をしましたが、ほかの十人の者は、「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」と言って、イスラエルの心をなえさせました。

 

 十人の斥候の報告を信じた全会衆は大声をあげて叫び、泣き明かし、モーセとアロンにつぶやきました。

 「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くないか。」

 「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。」(民数記14:1-4)

 

 ヨシュアとカレブのふたりは、信仰をもって全会衆に言いました。

「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。

 ただ主に背いてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちの餌食となるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」

 しかし全会衆は、ヨシュアとカレブを石で打ち殺そうと言い出しました。(民数記14:7-10)

 

 イスラエルは神が与えると仰せられたカナンの地に入ることを拒みました。主は、イスラエルの背きと不信仰を怒られました。

 カナンの地に導き入れられるために、多くのしるしと奇跡によって奴隷の家エジプトから連れ出され、神の栄光を目撃したイスラエルは、カナンの恵みを理解していませんでした。彼らには信仰がありませんでした。不信仰な彼らは荒野で滅ぼされました。

 

 六十万人いた成人男子のうち、最後まで神に信頼しカナンの地を占領することを信じたヨシュアとカレブのふたりを残して、すべて荒野で死に絶えました。

 

 羊の血によってこの世であるエジプトと区別された神の民イスラエルの成人男子で約束のカナンの地に入ったのは、信仰を持ち続けたヨシュアとカレブのふたりだけでした。

 

 神の子羊イエスの十字架の贖いの血で罪が赦されたことを喜ぶ神の民は多くいます。キリストの血で、裁きが過ぎ越されることを信じています。

 

 荒野でつぶやいたイスラエルのように、子羊イエスの血によってこの世から救い出され、滅びの世と区別されて神の子どもされる特権を受けても、信仰を守り抜くのは並大抵ではありません。この世を羨んでつぶやいたり、天の御国の希望を見失ってしまいます。

 

 キリストの血はこの世の滅びから救い出しましたが、約束の天の御国をめざして、信仰の歩みをするのは、キリストの血によるのではありません。神にキリストの御霊を求めなくてはなりません。

 希望を見失って神の約束に不信仰になることは、約束のものを受けるのを妨げます。荒野でつぶやいて、カナンの地に入ることのできなかったイスラエルを思い出しましょう。そして、信仰を持ち続けたヨショアとカレブに心を留めましょう。

 

 不信仰な人々は、荒野の現状を見て、奴隷の家エジプトを慕いました。エジプトが彼らの故郷でした。

 ヨシュアとカレブが見ていたのは、神が約束しておられるカナンの地です。彼らは神のことばを心に留め、先祖の地に心を向けていました。

 

 パウロは言います。

 「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」(ピリピ3:13,14)

 

 目標の天の御国を目ざしているならば、思いがこの世に向きません。目標がぼんやりしていると、信仰もぼんやりします。

 神は、イスラエル(神の民)をこの世と区別し、この世の滅びから救い出して、約束の天の御国へと導き上らせてくださる方です。

 

 肉なるからだのイエスを、死から復活した栄光のからだのキリストの姿に変えられた主は、神の民に約束の御霊を与えて天の御国へと導いてくださいます。

 神の御国に入る信仰は、キリストの御霊によって与えられます。人から出た信仰ではありません。御霊は、信仰に確信を与えてくださるのです。