「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:24)
人には、霊と魂と肉体があると言われます。人は、神のいのちの息が吹き込まれていて、霊的造物として造られているからです。また、「われわれに似せて人を造ろう。」と仰せられた主は、父なる神、御子なる神、聖霊なる神の愛の交わりのように、愛と慈しみをもって神と交わる者として造られました。
そして、知情意の心の機能を置かれたのです。知性と感情と意志です。感情を抑制する理性も備えられています。計画し実行する力、異なる種のために益となるアイディア、全体を見渡しすべてのものに配慮する能力、進む方向性を見極める力を神から受け取る管理者、すべての被造物の支配者として造られているのです。
ほかの生き物にも感情はありますが、人のように複雑ではありません。また、支配者のように、他の種のために配慮することもありません。
人の肉体の中には、霊と魂があります。人は、霊的存在として造られました。神に授けられた霊によって、永遠を思うのです。
神は霊です。肉体がありません。
私たちは、「イエス・キリストは神の御子です。」と告白します。それなのに、「イエス・キリストは神です。」という言葉に何かしっくりしないものを感じます。それは、イエスが肉体を持った人の子だからです。イエス・キリストというと、教会に掲げられた十字架につけられた姿を思い浮かべる人もいるでしょう。
イエス・キリストは、人間の目に見える肉体の姿で地上に来られた神のひとり子です。神のひとり子は、父なる神に肉体を造っていただき、人と同じ姿となられました。神のひとり子は、神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、父に従い、人間と同じようになられたのです。
「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」(ピリピ2:6,8)
神の御子イエスは、肉として女から生まれ、十字架の死によって罪を処罰し、悪魔の策略を踏み砕かれました。
肉体の人の子イエスは、十字架で死にました。そして、罪のないイエスは、死に勝利して、死から甦られました。罪の報酬は死です。罪がないならば死はとどめておくことができません。肉のからだ(肉体)は死んで朽ちますが、神は、死に勝利したイエスに、霊のからだを与えられました。死んでも甦り永遠に生きる復活のからだです。
聖霊はイエスとともにおられ、キリストの公生涯を導かれました。イエスがバプテスマのヨハネから水のバプテスマを受けられたときに、イエスの上に、天から鳩のように下って来られた御霊です。
御霊は、神の子羊イエスを死から引き上げ、新しい栄光のからだによって復活させられました。復活されたキリスト・イエスには、肉のからだはありません。永遠に生きる霊のからだとなられました。
私たちが、「主。」と呼ぶキリストは、栄光のからだなのです。永遠に生きられる霊の存在です。この永遠に生きられる霊のキリスト・イエスが、私たちに永遠のいのちを与えてくださる「救い主」なのです。
天の御国に集められる神の子どもたちもまた、霊の姿に新しく創造されます。霊の姿に変えられなければ、永遠に生きられるキリストと一つになることができません。
天に上り、父なる神の御座の右に着座された主キリストは、新しい創造を受ける神の子どもたちに、キリストの御霊を授けられます。父が遣わされる聖霊です。約束のもうひとりの助け主、真理の御霊です。
イエスは、聖霊とともにおられ、神の御霊によって、父を礼拝しておられました。肉には、神を礼拝する機能がありません。
肉なる者は、人間的なものを頼みとします。自分に良いと思うことに従って、自分の知恵と知識によって、死んだ神を拝むのです。人の霊は、アダムの堕罪とともに死にました。神のいのちから外れたのです。死んだ霊は、死んだ神を慕い、崇めます。
まことの神は生ける神です。生ける神は、生ける霊によって礼拝します。復活されたキリストが与えてくださるキリストの御霊によって礼拝するのです。御霊は、何が良いことで神に受け入れられ、神に喜ばれるのかをご存じです。御霊が真の礼拝を導いてくださいます。
人は、イエス・キリストを信じて義とされ、父なる神の憐れみによって、もうひとりの助け主、聖霊による新生((新しく生まれる)と心の一新(心の割礼)と、信仰の更新による洗い(聖化)と新しい創造によって救われます。
神を礼拝する者は、神の御霊と純真な心と信仰によって礼拝しなければなりません。人の力、人のものでは、神を喜ばせることができません。
キリストの御霊によって教えられ、導かれる者は、神に覚えられ、神に受け入れられ、神に喜ばれる者です。
御霊のうちに神の安息があります。御霊による礼拝には、すべての思い煩いを置いて、神にゆだねる全き信頼と、平安を味わう安息があるのです。神が私たちを休ませてくださるのです。
キリストも、聖霊も、父なる神の栄光がたたえられることを望んでおられます。キリストの霊は、私たちのうちにあって、父の栄光を仰ぐ神の子どもとして養い育ててくださるのです。