ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神の栄光を現わす神の民

 

 神は、地が暴虐で満ちるのをご覧になって、地を滅ぼすことを決めて、主の心に敵うノアに語られました。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、神とともに歩む全き人でした。

 

 ノアは神のことばに従って、神の設計どおりの箱舟を造り、神の水の裁きから救われました。そして、神は、神が創造された人と被造物を大水によって、地の面から消し去られました。

 

 地上は、ノアの三人の息子(セム、ハム、ヤペテ)から生まれた子孫によって再スタートしました。

 

 ハムの子孫から、神に歯向かう二ムロデが生まれ、二ムロデは最初の権力者となりました。二ムロデにより人は心ひとつにして、町を建て塔(バベルの塔)を築き始めました。神はそれをご覧になり、仰せられました。

 「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、止められることはない。

 さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」(創世記11:6,7)

 

 「それゆえ、その町の名はバベル(混乱)と呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させられたから。すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らされたからである。

 こうして、主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。」(創世記11:9,8)

 

 権力者二ムロデの罪によって、人類は、それぞれ氏族、国語、地方、国ごとに分かれたのです。

 

 一方、セムの子孫にアブラハムが生まれました。神はアブラハムを選び、地上に神の民を造られました。イスラエル(ユダヤ民族)です。アブラハムの子、イサクの子、ヤコブの子であるイスラエルは、まことの神に仕える民として造られました。

 

 神は、イスラエルと契約を結ばれました。それは、先祖アブラハムに与えたカナンの地を相続すること、神の与える律法(戒めと定め)を守ること、神に従うならば祭司の王国としての祝福を与えること、神の民ユダヤ人から救い主キリストが生まれることでした。御救いは、神の民とともにありました。

 

 洪水のあとで、神はノアと契約を結ばれました。

 「わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それは、わたしと地との間の契約のしるしとなる。」(創世記9:11-13)

 

 また、仰せられました。

 「虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう、」(創世記9:11:16)

 

 「水で地を断ち滅ぼすことはしない。」と仰せられた主は、次は、火で滅ぼすことを決めておられます。

 

 ペテロⅡ3:6,7には、このように書かれています。

 「天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界(ノアの時代)は、その水により、洪水におおわれて滅びました。

 しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どもの裁きと滅びとの日まで、保たれているのです。」

 

 今の天と地が存続しているのは、悪魔と悪霊どもの裁きと滅びの日まで保たれているのであって、実は、火で焼かれるためにとってあるだけなのです。火で滅ぼすことが定められているのです。

 

 水で滅ぼすとき、前もってノアに箱舟を造らせて救いに備えさせられた主は、火で滅ぼす前にも、御救いを設けておられています。

 それが、神の民イスラエルに約束された救い主キリストです。神は、神の祭司のイスラエルに、神の御子キリストを遣わされ、贖いの神の子羊として、祭司の国民に屠らせなさいました。

 

 キリストは、人の罪の身代わりとなって、十字架につけられ、罪の贖いの血を流されました。神の子羊イエスの血が、人の罪を赦すために流されました。人の罪を赦し、義とするために、神が用意された罪の贖いの血です。

 

 神に義とされた者に、火の滅びは及びません。神は、義とした者を聖とするために、贖いの子羊イエスを死から甦らせ、肉に死んだイエスに聖霊によって復活のからだを造られました。

 神は、十字架で死んだ神の御子イエスを、ひとり子のからだに戻されたのではありません。神のひとり子の御姿に戻されたのではありません。

 神の御子イエスは、人の子の肉体を脱ぐと、聖霊により、復活の霊のからだで甦られました。御霊による新しい創造を受けられたのです。それは、人々の救いのためでした。

 

 神がイスラエルを造られたのは、神の御子イエスを遣わすためでした。神が御子イエスを世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためでした。

 「御子イエスを信じる者は裁かれません。信じない者は、神のひとり子の御名(神が世に遣わされたメシア)を信じなかったので、すでに裁かれています。」(ヨハネ3:18)

 

 神と契約を結んだイスラエルは、先祖アブラハム、イサク、ヤコブの地(カナンの地、現イスラエル)を相続しました。そして、モーセの律法の下にいます。神が遣わされた御子イエスを十字架につけ、神の子羊イエスを屠り、罪の贖いの血を注ぎました。世の救いのために、神の祭司の働きを成し遂げたのです。

 

 イエスは、ユダヤ人の弟子たちに命じられました。「聖霊を受けなさい。」

 聖霊は、イエスを死から甦らせ、新しい栄光のからだをお与えになった神の御霊です。聖霊を受けるならば、死から甦られたキリストと同様に、栄光の復活のからだを得て死から甦るのです。

 

 御子イエスを信じて、神に義とされる者は多くいます。しかし、イエスのことばを信じて、聖霊(キリストの御霊)を待ち望む者は少ないです。キリストの御霊を持たない者は、肉の力で神を知ろうとし、自分の知恵と知識に頼ります。自分で理解できないことは、信じようとはしないのです。

 聖霊は、真理の御霊です。真理を教えてくださいます。人知をはるかに超えた不思議を体験させてくださいます。そして、信仰を育て、神に信頼する者に造り変え、救いの確信を与えてくださいます。キリストの御霊は、地に属する肉なる人を天に属する新しい人に造り変えてくださるのです。神が遣わされた聖霊が、天上の喜びを味わう神の子どもを創造されます。

 

 「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。

 これは、信仰の結果である、魂の救いを得ているからです。」(ペテロ一1:8,9)

 

 神は、火の裁きの前に、イエス・キリストの御名により与えられる聖霊によって、御救いを受ける人々を創造しておられます。

 

 神の心にかなった正しい人ノアは、神のことばに従い、水の裁きから救い出されました。

 

 暴虐に満ちた世にあって、神は、まことの神を信じる信仰の人アブラハムを選び、彼の子孫イスラエルと契約を結ばれました。イスラエルは、滅びゆく闇の世にあって、神のことばが与えられた世の光の民でした。イスラエルは、神の命令のうちを歩む聖別された神の民です。

 

 神はイスラエルに、神のひとり子を遣わされました。神は、神の御子イエスによって、火の裁きから救い出す御業を成し遂げられました。

 しかし、神の契約の肉の割礼と律法とを重んじるイスラエルは、生ける神の御子イエス・キリストを受け入れませんでした。

 

 神と契約を結んだ神の民イスラエルのうちで、神が用意された御救いを受け取る者はわずかでした。神の救いを待ち望んでいたイスラエルは、神が遣わされた神の御子イエス・キリストを受け入れませんでした。

 

 御救いのために遣わされた神のひとり子は、ナザレのイエスを信じて神に義とされた人々に、聖霊を与えられます。聖霊は、イエスを信じた人々を永遠に生きる新しい人に造り変えられます。

 しかし、イエス・キリストを主と告白する人々の中で、御霊を受け取る人は多くありません。

 

 神が用意された御救い(神の子羊イエスの十字架の死と復活)を信じた者のうち、聖霊を信じる者はわずかです。聖霊は、もうひとりの助け主であり、復活されたキリストの御霊です。

 

 聖霊を受けた者のうち、新生と更新との洗い(御霊によって聖めの火のバプテスマを受け新しく造り変えられる)によって、キリストの御姿に造り変えられて、信仰の勝利者となる者はわずかです。

 

 暴虐の満ちた世で、神は、ノアによって、神の義を現わされました。

 暴虐に満ちた世で、神は、イスラエルを造り、神の聖を現わされました。

 神は、イスラエルに神の御子イエスを遣わされ、御救いのわざを実現されることで、神の愛を現わされました。

 神は、イエス・キリストの御名によって聖霊を遣わされ、聖霊(キリストの御霊)を授け、御霊により新しく神の子どもに造り変えることで、御救いを完成させられます。

 

 神の栄光を現わす神の民とは、だれでしょう。イエス・キリストの御名を信じて神に栄光を帰し、キリストの御霊を受けて新しい創造を施された神の子どもたちです。

 

 御霊によって造られる神の民、御霊の教会は、勝利を得た者たちの教会です。永遠に生きる、キリストのからだです。神の栄光を現わす神の民です。

 

 神の御子イエス・キリストを信じないイスラエルは、神の栄光を現わすものではありません。

 聖霊(キリストの御霊)を受けない教会は、神の栄光を現わすものではありません。