そうではありません。
イエスは言われました。
「わたしに向かって、『主よ。主よ。』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父の御心を行なう者が入るのです。
その日には、大勢の者がわたしに言うでしょう。
『主よ。主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。
『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』(マタイ7:21-23)
主に退けられた人々は、イエス・キリストの御名によって預言をしていた者です。また、イエス・キリストの御名によって悪霊を追い出し、霊的な働きをしていた者です。彼らは、神にしかできないような奇蹟をたくさん行なっていた者です。
このような霊的な働きができるのは、異言を語る人々でしょう。聖霊のバプテスマを受けていた人々です。
教会の人々は、彼らの不思議な力に圧倒されていました。彼らは、預言や悪霊追い出しや奇蹟の力によって、神に近しい人、神の人と思われていました。
しかし、イエスは彼らに、「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」と厳しいことばを投げかけられます。
イエスは、偽善の律法学者やパリサイ人たちに向かって言っておられます。
「おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナ(永遠の火の池)の刑罰をどうして逃れることができよう。
だから、わたしが預言者、知者、律法学者たちを遣わすと、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂で鞭打ち、町から町へと迫害して行くのです。」(マタイ23:33,34)
ユダヤ人たちに尊敬されその地位を認められていた、律法に厳格なパリサイ人たちも、真理(神のことば)に混ぜ物(人間の教え)を入れて教えながら神を知る者のように振る舞う偽善の律法学者たちも、エバをそそのかし罪に陥れた蛇のすえなのです。彼らは、神が遣わされた者を殺したり、迫害する者です。神から出た人々を罪に定める闇の子らです。人から神の人と見られていても、神は彼らの敵となられます。
イエスが多くのしるしを行なうのを恐れた、祭司長とパリサイ人たちは議会を召集しました。そのとき、彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパの彼らに言ったことが聖書に書かれています。
「『あなたがたは全然何もわかっていない。ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。』
ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。」(ヨハネ11:47-52)
カヤパの預言は、大祭司という任職に伴った賜物でした。カヤパ自身から出た言葉ではありません。神のことばだったのです。神のことばを預言したから、カヤパは神に受け入れられる神の人だったでしょうか。
53節には、「そこで彼らは、その日から、イエスを殺すための計画を立てた。」とあります。
カヤパは、イエスの十字架の死を預言したのです。だからと言って、カヤパが神に受け入れられる人であったわけではありません。なぜなら、カヤパの預言は、彼らの心を一つにして、イエスを殺す計画へと導いたからです。
カヤパは、大祭司と言う神の役職ゆえに、賜物が与えられていたにすぎません。賜物には神の力があります。その人の力ではありません。それゆえ、賜物は、人に栄光を与えるものではないのです。賜物は、神の栄光が現わされ、神がほめたたえられるものなのです。
異言を語る人々も、御霊の賜物によって、預言をし、悪霊を追い出し、奇蹟を行なっいました。神から出ているものは、神に栄光が帰されます。しかし、「主よ。主よ。」と呼びつつ、イエスの御名を用いて、自分の栄光を求めたのです。彼らは、主からいただいた賜物を自分のために使いました。
そして、イエスは言われます。
「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」
彼らは、御霊を受け、異言を語り、賜物を用いる人々でした。しかし、御霊にへりくだって、新しく造り変えられた人ではないのです。彼らは、御霊の力を自分の栄誉のために利用しただけで、御霊の実(愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制)を結ぶ新しい創造を受け取っていないのです。肉の欲望のまま生きる人々です。
イエスは言われます。
「神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちが入っているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。
人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。」(れか13:28,29)
イエス・キリストが天から再び来られて、イスラエルの王として平和な世界を治められるとき、彼らは、いのちの木のある都に入ることができないのです。
都では、彼らが蔑んでいたような人々が祝宴の食卓についているのに、彼らは入ることができずに、門の外で泣き叫んだり、歯ぎしりするのです。
「ヨハネがイエスに言った。『先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。』
しかし、イエスは言われた。『やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行ないながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことがありません。これは確かなことです。』(マルコ9:38-41)
イエス・キリストの御名に力があります。イエス・キリストの御名に好意を持つ人々、イエス・キリストの御名の力を知り尊敬する人々、イエス・キリストとその信仰者たちに反対しない者は、神の御子キリストの味方なのです。神の敵ではないということです。
イエスは、彼らに、「わたしはあなたがたを全然知らない。わたしから離れて行け。」とは言われません。
イエスの父なる神は、キリストを信じているのに力のない小さな者に対して親切にしてくれた人々、キリストの兄弟(ユダヤ人)の最も小さな者に水一杯でも飲ませてくれた人々を、平和の世が訪れたときに、神の国に招かれるのです。都に入る者としてくださるのです。
神の慈しみは、御霊とともにあり、心の貧しい者(へりくだる者)、憐れみ深い者、心のきよい者、平和をつくる者、キリストのために迫害される者やののしられる者や悪口雑言を言われる者とともにあるのです。
聖霊のバプテスマを授ける教会に属していなくても、愛がある者、へりくだる者、憐れみ深い者、聖さを慕う人々とともに、神の御霊がおられるのです。