ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

いと高き所から力を着せられる

 

 ふたりの弟子が、エルサレムから11キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中のことでした。十字架で死なれたナザレ人イエスについて論じ合っていました。仲間が墓に行ってみると、墓にイエスのからだが見当たらず、御使いたちの幻を見て、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。

 

 イエスが近づいて、彼らの不思議がる様子をご覧になって、彼らに言われました。ふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわかりませんでした。

 

 「イエスは言われた。

 『ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。』

 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事柄を彼らに解き明かされた。」(ルカ24:25-27)

 

 イスラエルに約束されたメシア「主キリスト」は、多くの苦しみを受けて、民の背きの罪のために打たれ、生ける者の地(この世)から絶たれるのです。

 イザヤ53章に、キリストがご自分のいのちを罪過のための生贄すると、主(イスラエルの神)の御心は、彼によって成し遂げられることが書かれています。

 主の御心を成し遂げたキリストは、高く上げられ、神の御座の右の栄光の座に着座されるのです。

 

 その後、彼らとともに食卓につかれ、イエスがパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡されたとき、彼らの目が開かれ、イエスだとわかりました。するとイエスは、彼らに見えなくなりました。

 すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻り、十一使徒(イエスを裏切ったイスカリオテのユダは首をつって世から去っていた)とその仲間たちに、エマオの途上の出来事を報告していると、イエスご自身が彼らの真中に立たれました。

 

 彼らが驚き恐れて、霊を見ているのだと思っていると、イエスは言われました。

 「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしに触って、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」

 

 復活されたイエスのからだは、話すことも食べることもできるからだで、肉や骨もあったようです。

 

 それでも、彼らは、嬉しさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、彼らの前で、彼らから受けた焼いた魚を召し上がられ、言われました。

 「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」

 

 イエスは、聖書を悟らせるために、彼らの心を開いて言われました。

 「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中から甦り、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。

 あなたがたは、これらのことの証人です。

 さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都に留まっていなさい。」(ルカ24:46-49)

 

 復活のからだのイエス・キリストを見た弟子たちは、イエスとともにイスラエルを巡った人々であり、イエスが十字架で処刑されるのも、イエスのからだが墓に納められるのも、自分の目で見ていた人々です。

 

 彼らは、十字架で死なれたナザレのイエスが、死から甦られ永遠に生きる主キリストであることを証言する人々です。イエスがキリスト(神が遣わされた唯一の救世主)であることの証人です。

 

 イエスは、彼ら証人たちに、イエスの父(父なる神)が約束してくださったものを送ることを、約束されました。それは、もうひとりの助け主です。「先生」と呼んでイエスに従っていた弟子たちが、イエスを失って孤児にならないように、天から遣わされる聖霊です。

 

 父について、永遠のいのちについて、御国について、天上のことを教えておられた主イエスに代わる、天上から送られる助け主です。この助け主(聖霊)が、イエスのことばを思い起こさせ、イエスの歩まれたいのちの道に導いてイエスのおられる所に連れて行ってくださるのです。

 

 「あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都に留まっていなさい。」とのイエスのことばに従った弟子たちは、エルサレムにいて、約束の聖霊を受けたのでした。

 

 聖霊は、いと高き所から送られた神の力です。聖霊を受けた人は、いと高き所(神の御座)から、神の力を着せられた人です。唯一まことの神から、神の力を着せられるのです。

 

 神の力を着せられたユダヤ人(イエスの弟子)たちにより、イエス・キリストの御名によって罪を得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられ、二千年経った現在では、世界中に、主イエス・キリストの御名を呼ぶ者たちがいます。

 

 神に約束された聖霊は、受けても受けなくてもよいものではありません。聖霊は、神の力であり、地上にいる私たちが、神の力を着せられて、私たちの主イエス・キリストのわざをするのです。

 

 パウロは言います。

 「神の国はことばにはなく、力にあるのです。思い上がっている人たちの、ことばではなく、力を見せてもらいましょう。」(コリント一4:20,19)

 

 神の選びの民であるイスラエルに、神が、神の子羊イエス(主キリスト)を遣わされました。しかし、ユダヤ人たちは、イエスを神から遣わされたキリストであることを信じることができませんでした。

 

 イエスが世に現われる前に、バプテスマのヨハネの宣教によって、悔い改めの水のバプテスマを受け、キリストに会う備えをしていたのにも関わらず、ユダヤ人たちは、イエスがキリストであることを信じられなかったのです。

 

 「私は、水で悔い改めのバプテスマを授けているが、私のあとから来られるキリストは、聖霊のバプテスマを授ける権威を持つお方である。」とユダヤ人たちに語っていたバプテスマのヨハネは、天から御霊が鳩のように下ってイエスの上に留まられたのを見て、イエスを「見よ。世の罪を取り除く神の子羊。」(ヨハネ1:29)と証言しました。そして、この方(イエス)が、私のあとに来る方。神の子。聖霊によってバプテスマを授ける方であると、証言しました。

 

 主キリストのために道を備え、ナザレのイエスがキリストであると証言していたバプテスマのヨハネでさえ、のちには、イエスのもとに弟子たちを送って言わせているのです。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちはほかの方を待つべきでしょうか。」(ルカ7:19)と。

 

 イスラエルがキリストに会うために、イスラエルを備えさせる神の召しを受けたバプテスマのヨハネ、神が遣わされた神の御子キリスト・イエスがイスラエルに明らかにされるために、水でバプテスマを授けていたヨハネでさえ、イエスがキリストであることがわからなくなりました。

 

 イスラエルは神の命令に忠実であろうと、モーセの律法を守ることに厳格でした。しかし、もっとも大切な律法、「ユダヤ人の中から神がお立てになる、モーセのようなひとりの預言者(キリスト)がイスラエルに語ることはみな聞きなさい。その預言者に聞き従わない者はだれでも、イスラエルの民の中から滅ぼし絶やされる。」を守ることのなかったイスラエルは、神から遠く離れました。

 

 イスラエルの中で、神の約束のもの、主キリストを受ける者は、わずかでした。血肉のユダヤ人は神の怒りを買い、神の御救いは、異邦人に及びました。神は、血肉のイスラエルを、イエス・キリストの御名によって授ける聖霊にあって、新しいイスラエルに創造されます。神の契約は、新しく造られたイスラエルとともにあるのです。

 

 イエスのことば、「わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。聖霊を受けなさい。」に従う人は、新しいイスラエルに属する人です。

 

 イエス・キリストの御名を信じても、イエスの父が約束されたもうひとりの助け主、真理の御霊を受け取らない者は、イエスのことばを守っているとは言えません。

 キリスト教会に属する者は、聖霊を受け、いと高き所からの力を着せられて、神の子どもとされます。御霊によって生まれ、新しい創造を受けて新しいイスラエルに加えられるのです。

 

 新しいイスラエルは、いと高き所から力を着せられた人々を国民とする、イスラエルの王(復活のイエス・キリスト)の国民です。天の御国に入る、神の子どもたちです。