ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神に仕えるのはむなしいことなのか

 

 「あなたがたは言う。

 『神に仕えるのはむなしいことだ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の益になろう。

 今、私たちは、高ぶる者をしあわせ者と言おう。悪を行なっても栄え、神を試みても罰を免れる。』

 

 そのとき、主を恐れる者たちが、互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で、記憶の書がしるされた。

 『彼らは、わたしのものとなる。―万軍の主は仰せられる―

 わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。

 あなたがたは再び、正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる。

 見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行なう者は、わらのようになる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。―万軍の主は仰せられる―

 しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。

 あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行なう日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。―万軍の主は仰せられる―』」(マラキ3:14-4:3)

 

 神の民の中には、信仰のある者もいれば、信仰のない者もいます。神を恐れる者もいれば、神を恐れない者もいます。神の民は、群れの中で、滅びの世から守られています。

 

 神の家(教会)では、神の戒めを守るように教えられます。しかし、世を見回すと、神の戒めを知らず、神の戒めに対して自由に振る舞う人々が、規則に縛られず、楽しく過ごしています。世の人々のほうが幸せそうに見えます。

 

 自分の好き勝手に生きていても、咎めるものがないのです。そして、彼らは世で成功していたり、他人がうらやむような生活を送っています。

 

 神は私たちに幸いを与えてくださる方ではないですか。それなのに、世の人々がおおでを振って歩く端っこを、こそこそと慎ましく歩いています。世の人々は天に向かって大きく笑い、楽し気です。しかし、私たちは、首を垂れ、天にへりくだる者です。

 

 世の人々のほうが力ある者のようです。堂々と生きています。私たちは、力のない弱々しい者に見えます。すると、神の家の人々の心に疑問が湧いてきます。世の不条理を見て、信仰が影を潜めます。

 

 世と比較すると、神の国は幻に思えます。世が現実で、神の約束はむなしい逃避のように思われます。すると、神を目の前にして生きることが実体のない影を追っているようにむなしく感じられるのです。

 

 神を恐れ神の戒めを守ることがむなしく感じられます。万軍の主イエス・キリストの御名を呼びながら、目の前に起きる現実に打ちひしがれてしまいます。悔い改めて神のあわれみを請う歩みに、何の益があるでしょうか。

 

 世の人々は、悔い改めることなく、自分勝手に自由気ままに生きていても、何の罰も受けません。悪を行なっていても栄えており、神に高ぶる者たちが成功者となって人間の願う幸せを手に入れています。神を恐れない人々は、高ぶる者を幸せ者だと錯覚します。

 

 神の家の中で、心が分かれます。

 そのとき、主を恐れる者たちは、この事態に対して語り合います。彼らの霊は、神を否定することができません。目の前に起こることが理不尽なことであっても、私たちの神は真実なのです。

 

 神は、主を恐れ、主を卑しめることなく、また、神に背を向けることなく、主の御名を尊ぶ彼らの語り合いに耳を傾けて、これを聞かれます。

 そして、神の前で、主を恐れる彼らのために、記憶の書がしるされます。「彼らは、わたしのものとなる。わたしが事を行なう日には、わたしの宝となる。」

 

 世の人々が栄えているように見え、正しい人も悪者も、神に仕える者も仕えない者も同じだと考えた者は、神に退けられます。

 しかし、どんな状況でも、神を恐れ、神が真実であることを信じ続ける者たちは、神にあわれまれて、裁きのときには、「神の宝」として、燃える火から守られます。

 

 不条理に思う世が過ぎ去ると、神御自身が御子イエス・キリストを「王」として治められる、新しい神の世が現われます。

 そのとき、だれもが、正しい人と悪者、神に仕える者と神に仕えない者との違いを、はっきりと見るようになります。

 

 今、神に仕えないで喜び楽しみ笑っている世の人々や、罪に定められない悪者たちは、逃れることができません。悪を行なっても栄えていた者たちや、すべて高ぶる者たちは、火に焼き尽くされて、わらのようにめらめらと燃え、跡形もなくなります。

 

 しかし、主の御名を恐れ、神の義にすがる人々は、彼らの信仰によって神に印が押され、彼らの嘆きは慰められ癒されて、すべての束縛から解放される自由の子、光の子とされます。

 そして、悪者が正しくて、正しい人が不義であるかのようなこの世の基準(人間の基準)はひっくり返されて、神に義と認められた人々が、この世で力を持っていた悪者ども、神の火に焼かれて灰となった悪者どもを踏みつけるのです。

 

 本当に正しい人が栄え、悪者は滅びます。神に仕える者が永遠に生き、神に仕えない者は跡形もなくなります。

 

 私たちの主イエス・キリストは、痛めつけられました。イエスは苦しんだが、口を開かない。屠り場に引かれて行く子羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、イエスは口を開かない。虐げと裁きによって、イエスは取り去られました。

 イエスは、蔑まれ、人々からのけ者にされ、私たちが見とれるような姿も輝きもなく、悲しみの人で、だれからも尊ばれませんでした。

 イエスは暴虐を行なわず、その口に欺きはありませんでした。しかし、イエスは、背きの罪のために打たれ、殺され、悪者どもとともに、また、神に高ぶる者とともに設けられた墓に入られました。

 

 イエスは、死から甦らせる力ある神、正しい者に報いてくださる真実な神、神が与えてくださる栄光を見ておられたのです。

 

 移り行く世ではありません。天で永遠に輝く神御自身を見ておられたのです。

 

 天の神もまた、神に信頼する者をご覧になっておられるのです。神に仕える者は、神に覚えられています。そして、彼らのために、永遠の祝福を用意しておられるのです。