ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

束縛からの解放

 

 神の導きを受けて、二十年前から「御座におられる方王の王主の主教会」として、霊とまことの礼拝を目的として、ひとりで礼拝を守っています。

 ひとりの礼拝ですが、教会としての礼拝です。賛美、献金、聖餐、祈り、聖書朗読、説教、イスラエルの祝福を毎週行なっています。私はこの教会によって守られています。教会に属さないで、自分ひとりの信仰で霊が守られることは難しいことですし、危険なことです。

 御座におられる王の王主の主教会では、日本の教会に聖霊が注がれて、御霊によって新しく生まれる御霊の子が起こされるように、日本の教会が聖霊を受けて御霊の教会となるように、イスラエルを正しく理解してユダヤ人に対する神の御思いを知る教会となるように執り成しています。

 そして、毎年、新年を迎えると、新しい一年のためのみことばを求めます。

 今年は、ナホム1:13をいただきました。

 「今、わたし(神)は彼(滅びに連れて行く悪魔)のくびきをあなた(神の聖徒)からはずして打ち砕き、あなたを縄目(滅びの束縛)から解き放す。」(ナホム1:13)

 

 彼のくびきとは、宗教の霊であるかもしれません。あるいは、神から引き離そうとする家族や所属する集団や、この世のしがらみかもしれません。

 しかし、神にすがるならば、解けなかった縄目をも、神の霊がご介入されて、解放してくださるようです。長い間、自由になることを妨げていた悪しき霊の縛りが解かれ、神が縄目を解き放ってくださいます。

 

 天の御国は聖徒たちを迎える用意ができたようです。

 地上の聖徒らが天の御国にふさわしく整えられるのを待つばかりです。

 

 いよいよ、異邦人の時の完成が近づいています。ユダヤ人ビリーバーとクリスチャンたちの救いの完成の時です。

 聖霊のバプテスマを受けて、御霊によって(肉に死んで)霊にて生きる新しい者に造り変えられた聖徒たちが永遠の安息に招き入れられるときです。

 霊的覚醒が起き、その中で、真理に反対する背教者が現われ、殉教者の数が満ちると、その時が来ます。

 

 「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。」(ローマ8:21)

 

 世が始まりアダムの堕罪とともに、破壊の一途を辿って来たこの地が、いのちを得るときが近づいているのです。

 被造物の管理を神に任された人が、神の命令に背き、神のことばから外れたので、死を迎え入れて、被造物全体が神の呪いの中に入れられました。神のいのちと祝福を失ったのです。

 

 肉眼に見えているものはみな、はかない幻です。在ると見えていたものが、いつの日か消え失せるのです。この世には、確かなものはありません。人は、消えてなくなるかげろうのために生涯をささげています。神から与えられた命は、帰る場所を知らずしてさまよいます。

 

 神が創造主であり、目に見えるものすべては創造主によって造られた被造物であることを悟ることのできる人は、一体どれくらいいるのでしょうか。

 多くの人は、それは、夢見る人々が気休めに作り出したおとぎ話だと冷笑することでしょう。世の人々にとっては、目に見える進歩と手で触り確かめることのできる実体が伴わなければ、妄想にすぎません。

 

 彼らは、霊の死んだ者です。心臓が動き、思考力があり、生きて活動していますが、創造主を悟れず霊の閉じた死人です。しばしの間咲き誇る花のように、地上で生きている間は生きているように見えますが、(花が)しぼむと何の痕跡もなく、翌年には忘れ去られている(昨年咲いた)花のようです。

 

 世の人々が幻想と思っている神の実在こそが、真理であり、永遠に残る実体なのです。そのことは、霊の死んだ者にはわかりません。

 

 神を知る知恵者は言います。

 「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠の思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見極めることができない。」(伝道者3:11)

 

 世に起こるすべてのこと、歴史は神によって動かされていると言います。そのすべてを動かしておられる神は、すべての被造物を管理する任務をお与えになった人の心に、永遠の思いを与えられたとあります。おそらく、とこしえに生きておられる神と心ひとつになるためでしょう。

 永遠への思いが与えられ、永遠への思いを持っているからこそ、人は生きている時間だけではなく、自分が生まれて来る以前にあった世の時間と自分が世を去った後にも続く時間という、区切りなく延々と続く時間にも思いが向けられます。

 その切れ目のない時間を思う時、永遠に存在するものがあるのではないのか、という考えに至ります。

 

 宗教は、その悠久の時間を思い描くうちに、見出した霊的存在を心に入れたものです。これで、永遠への思いの謎が解けたと思っていますが、実は、それでは解決できていないことに気づきません。

 

 永遠への思いを人の心に与えられた神は、神が行なわれるみわざを初めから終わりまで見極める知恵を人に与えておられないのです。(人は、神の御子イエス・キリストと聖霊(キリストの御霊)という神格者の助けによって、その知識を受けるのです。)

 

 真理に辿り着くために、世の中には多くの道が張り巡らされていて、「真理」という概念は同じでも、いろいろな信念に分かれているのです。

 そして、その信念は闇の中にあるのです。宗教は、死の世界の教えであって、いのちがありません。死を前提としての教えです。

 宗教では、自分自身は救われたと感じても、自分の救いがほかの被造物の救いとはなりません。

 

 被造物が苦しむのは、人(アダム)の罪ゆえです。人が罪を捨てて正しい位置に戻るならば、被造物に平安が訪れます。

 人が蛇(悪魔)の言葉の奴隷となったために、被造物全体が破壊者である悪魔に服従させられ苦しめられています。

 

 人を被造物全体の管理者に任じられた神は、神のひとり子を遣わして、世の罪を取り除く御計画を実行されました。

 罪人の罪の贖いのために、十字架で罪の贖いの血を流されたのです。最初の人アダムのように神のことばに背くことなく、神にへりくだり神のことばに忠実に聞き従われた神の御子イエスは、神に忠実な人々を集めて罪のない新しい人に造り変えられます。

 

 神の裁きの御前に立つ時、最初のアダムは、神のことばに背いたために罪人を生み、罪によって死んだ死人たちを神の御前に連れて行きます。

 最後のアダム(神に完全に聞き従われたイエス・キリスト)は、ご自分の血(神の子羊イエスの血)で罪人の罪を贖い、神に罪が赦されて義とされた人を、神のことばに従う新しい人に造り変え、永遠に生きる神の子どもとして神にささげられます。

 

 人の子(主キリスト)となられた神の御子イエス・キリストは、新しく創造された神の子どもの栄光(信仰によって闇に勝利した光の子)の自由(神の安息)の中に、滅びの束縛から解放された被造物を入れられます。

 

 神の御子イエスを主キリストと告白する神の子どもたちの信仰の勝利によって、新しい世が建てられます。彼らの主イエス・キリストと天の軍勢が、悪魔が権威を与えたこの世の権力者反キリストと偽預言者と悪魔の子らを滅ぼし、滅びの世を終わらせます。悪魔の支配により破壊された世の苦しみの時が終わります。被造物全体が滅びの束縛から解放されます。

 

 神は、地上に、神の御子イエス・キリストが世界を治める平和な世を建てられます。聖徒たちが待ち望んだ、聖書の預言の成就の時です。千年王国です。

 

 平和が地をおおいます。被造物全体が安らぎを得ます。破壊者はなく、安全な世となります。平和の王、主キリストが世界を治められるからです。

 「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。

 雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの巣に手を伸べる。

 わたし(神)の聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、損なわない。

 主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。」(イザヤ11:6-9)

 

 地上から争いは消えます。

 「終わりの日に、主の家(イスラエル)の山は、山々の頂に堅く立ち、すべての国々(諸外国の人々)がそこに流れて来る。(地形は変わり、平地となった世界にエルサレムが高くそびえ、世界のどこからも見える礼拝場所となる。万軍の主イスラエルの王〈神の御子イエス・キリスト〉の御座のあるエルサレムに、イスラエルの王〈イエス・キリスト〉に御救いがあることを知ったすべての国々がやって来る。)

 多くの民(外国人)が(イスラエルに)来て言う。

 『さあ、主の山、ヤコブ(イスラエル)の神の家に上ろう。主は御自分の道(いのちの道)を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道(主の御教えの道)を歩もう。』

 それは、シオンから御教えが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。

 主は国々の民の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。(イスラエルの王イエス・キリストは、全世界を治める王となられ、正しい裁きをされます。)

 彼らはその剣(武器)を鋤(農具)に、その槍(武器)をかま(生活用品)に打ち直し、国は国に向かって剣を上げず(争わず)、二度と戦いのことを習わない。(二度と戦争は起こらない。平和な世となる。)」(イザヤ2:2-4)

 

 聖所からは生ける水が川となって流れます。

 「その川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川の入る所では、すべてのものが生きる。」(エゼキエル47:9)

 

 いのちの主、永遠に生きられるイエス・キリストを地上に迎えると、被造物全体がいのちを得ます。

 高濃度の塩分で生物の住めなかった死海に生ける水の川が入ると、多くの種類の魚が住むようになります。死海は、死の海ではなく、いのちの海となるのです。

 死んでいた者が生き返ります。被造物全体がいのちに満たされるのです。

 

 死の束縛から解放されます。人の寿命は樹木のように長くなります。最初の人アダムの時代のようです。アダムは九百三十年生きました。

 

 「そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、呪われた者とされる。」(イザヤ65:20)

 

 死も病も、神の創造された「人」の正しい姿ではなかったのです。罪の結果、迎え入れてしまった人間の業です。

 しかし、この業を終わらせた方がおられます。神の子羊イエス(神の御子キリスト)です。キリストは、肉に死んで御霊によって新しく生まれる神の子どもたちを創造されました。

 

 キリストの御霊によって造り変えられた新しい人たちの、賛美と感謝と祈りと礼拝は、神の御心を満足させ、また、神の敵である悪魔の力を弱めます。

 新しい人(聖徒)の霊は生き、死の束縛から解放されます。

 

 家族は、人数分の数の鉛筆をひもでくくられたもののようです。そのくくられた鉛筆をその束から取り出すのは至難の業です。しっかりとひもで縛られていますから、最初はびくともしません。しかし、何度も何度も一本をつかみ引っ張り続けると、その一本が取り出されます。最初の一本は難しかったですが、一本が取り出されると、残りの鉛筆はすんなりと取り出されます。

 家族の救いとはこのようなものかも知れません。最初に取り出されたひとりがイエス・キリストの御名で家族の救いのために祈り続け、神のことばを実行していくならば、家族も救われて来るのでしょう。ひとりが滅びの束縛から解放されれば、残りの家族の束縛はゆるくなるのです。

 最初は悪魔が放っておかず、救われた者を束縛の中に引き戻そうと攻撃をしてきますが、それでも、イエス・キリストの御名の中にすがり留まり続けるならば、神御自身が悪しき者のくびきを、ご自身に信頼する者からはずして打ち砕き、縄目から解き放ってくださるのです。