メシアニック・ジュー(ユダヤ人としての伝統を守りつつ、神の御子イエス・キリストを信じるユダヤ人)の講師が言っておられました。
キリストの御救いは個人のものではなく、民族レベルのものである。個人がキリストを信じて救われると考えるのはおかしい。民族的な救いがない限り、それは救いとは言えない、と。
それを聞いた時、ユダヤ民族は、神から御救いが約束された民族だから、民族的救いという思想があるのだろうが、神の契約を持たない異邦人に民族的救いという約束はないから、そうとは言えない、と思いました。
しかし、いにしえから日本にある神道では、国家レベルの思想がありました。
日本神道御嶽教のいにしえの教えには、「神の心にしたがって、罪穢れなく、清らかで、明るくおおらかに生きる。」とあるようです。
そして、日本という国家を想い、国民一人一人の幸福を祈る「和の心」を大切にしているようです。
神道の中心には、目に見えないが日本人とともに昔から日本におられる神がおられ、この神にかなう、神にふさわしい民として暮らすことを教えられていたようです。
そして、互いに思いやり、また、日本国家を想い、国民一人一人が幸福であるために祈られて来ました。神道は、日本国の祭司のようです。日本国家の安寧、国民一人一人の幸福のために祈ってきたのです。
神道扶桑教の教えでは、次のように言っています。
「日本には八百萬の神々と言い、多くの神が存在しますが、それは決して人格神ではなく、宇宙のいろいろの作用を表す分掌神として存在します。(聖書的に解釈するならば、様々な働きの御使いたちがまことの生ける神、唯一の全能の神の御心に仕えている。)したがって八百萬の神々は、元始の創造神で天之御中主神(アマノミナカヌシノカミ)に帰一するのです。(日本では八百万の神々がおられるように思いますが、それらの神は実は、おひとりの神、天の神、天之御中主神と同じ心を持つ霊的存在なのです。すなわち、神々はおひとりの神、天の神に帰するのです。)
神の意を実践するために、人は誕生しています。常に私達の身体の中には神の神霊(しんれい)が鎮まりますので、いついかなる時でも、たとえ天変地異に遭うことも、貧苦に責められても私達の行為の上には人間として踏むべき正しい行動をとらなくてはなりません。(この教えが日本人のDNAにあるので、災害の中でも落ち着いて行動する国民なのでしょう。)
私達はこの現世を立派に暮らして神の心に従い、与えられた生命の起源まで精一杯生きることが一番大切なことです。(ところが、外国の霊によって日本神道の教えが追いやられて、大和魂は無残にも価値のないもののように扱われ、とうとう、本来の日本人の心は居場所を失ってしまいました。それゆえ、いのちを大切にしてきたはずの日本人なのに自殺者が増えているのです。)
それは、生きとし生けるものすべて、動物、植物にへだてなく、各々の働きに感謝し、互いを認め合い、尊敬し合い、助け合って生きることが神の心に沿うことです。」(宍野史生記)
「全ての生命の営みは、大祖産神のみはかりによるものである。」
これが日本神道の基本的考えなのです。聖書とまったく同じではありませんか。
日本人が互いに祝福し合うことを忘れても、神道の人々は、隠れたところで、祈りを継続しておられたのです。
真理を知っていると自負しているキリスト教徒が日本のため、日本人の幸福と救いのために祈っていなくても、神道の人々は祈りを絶やさずにいてくださったのです。
日本人は、キリスト教徒になると、日本人と別もののようになってしまいます。しかし、神道は、同胞として、おそらく日本全体のために祈って来られたのでしょう。
クリスチャンは思いを正しましょう。キリストの血による贖いのことを知っているクリスチャンは、キリストの血潮によって日本列島が贖われることを祈ることのできる稀な民なのです。贖いを執り成すのは、キリスト教会の務めなのです。
神道も、仏教も、キリスト教会も、日本列島も、日本人も、私達の父なる神の憐れみを受けて贖われ、罪が赦されるために執り成しましょう。
日本には、神の御計画があるのです。聖書の神の御計画です。神の御計画が成就するように祈りましょう。そして、道行くときも、いつでもどこでも「祝福あれ。」と祈りつつ歩みましょう。