日本人の多くは、あなたの信じる宗教は何か、と問われたら、考え込んでしまいます。日常生活で宗教を意識することはほぼなく、普段から宗教には縁遠い者だと自覚しているのです。
日本人は、神社の前を通り過ぎるとき、会釈をする人は普通にいます。お墓に行って先祖のお墓参りをする人々もまだまだいます。お寺の除夜の鐘を聴くと、ああ年が明けたんだな、と感慨深くなります。
日本人自身は無宗教と思っているのですが、外国人から見れば宗教的な文化を持ち、神仏が日常生活の中に溶け込んだ暮らしをしているように見えるでしょう。
家が仏教のある宗派に属しているので、それが自分の宗教と言えるのかなあ、お葬式や法事などでお世話になるから仏教徒なのかなあ、でも、自分自身は仏教のことをよく知らないし、特別信心しているわけでもない、と考えます。
また、神社でお参りするからと言って、神道とも言えない気がする。お寺でもお参りするし、住んでいる地域の神社を当番制で掃除をしたりして関わりを持っているけれど、自分の宗教って果たして何だろうと思うのです。日本人には、自分の宗教を持つという意識が少ないのかもしれません。
神社においては、村や町のみんなを守ってくれるありがたい存在だと思います。
お寺においては、個人の心を支える慰めの存在だと思います。
神道は日本人を守る国家のような存在、仏教は自分を慈しみ守ってくれる家族のような存在ということでしょうか。
日本人は、神仏を認め、感謝し敬う心を持っています。しかし、宗教とは違います。
神道の中心には、天御中主神(アマノミナカヌシノカミ)と高皇産霊神(タカミムスヒノカミ)と神皇産霊神(カミムスヒノカミ)の三柱がおられます。
天地創造の、天に座される神です。神道では神を柱として数えます。
神道の人は、三柱の神の名を知っています。天の神は、一柱ではなく、三柱おられるのです。
地上には、様々な名前や役割をもった神々がいます。神々の名前は、何とかの命(ミコト)と言います。大国主命(オオクニノミコト)とか須佐之男命(スサノオノミコト)のようにです。
日本人は、神々の源がいのちであり、どのような役割を持ちまたいかなる名前を持つ神であっても、いのちから出たものであることを信じていたようです。それゆえ、神々の名前は何とかの命(ミコト)と呼ぶのでしょう。
そして、神々はすべてを創造された天の三柱の神に至るのです。日本人には、一神教の考え方はありません。すべてのものに神のいのちが宿り、日本人を生かしてくれる優しくも厳しい存在である大いなる方に支配されているのです。
自然と調和し、すべてのものと和することによって、神々への感謝とへりくだりの心を育て、魂の平安を得ていたのでしょう。
アフリカのブンジュ村の長老の祖父のシャーマン(神霊と交信する職能者)が夢の中で縄文時代の日本人(縄文人)から日本人の心と生き方を学び、その学びと生き方とを伝承し、語り継がれてきたようです。そして、長老はその生き方を日本人が取り戻すことを願っておられるようです。
日本人がその心を取り戻すとき、世界に救いが訪れるのでしょう。
長老いわく、日本人は(自然を司る存在から)愛されることを知っている民族であった、日本人には愛される記憶がある。
神に愛されていた民族だったのですね。神に愛されていたから、日本人もまた、愛してくださる神を畏れ崇め心が神とともにあったのでしょう。そして、慈しむ心が養われたのでしょう。
仏教では、阿弥陀三尊像と言って、阿弥陀如来を真中にして、阿弥陀如来像の右側に勢至菩薩像、左側に観世音菩薩像があるようです。
仏教では、さまざまな名前、姿形、役割をもった仏たちがいますが、この三尊は、亡くなったあと極楽浄土に生まれ変わりたいと願う人々の希望だったのでしょう。
阿弥陀如来は、西のかなたにある極楽浄土におり、人が亡くなるとき、魂を迎えに、この世に飛来してくると考えられました。
智恵の光を司る勢至菩薩はその光で衆生(一切の生きとし生けるもの)を照らし救う働きをし、慈悲を司り衆生を強化する観音菩薩は往生者の魂を救い取り蓮台に載せて運ぶ働きをするようです。阿弥陀三尊は、来迎(らいごう。臨終に、阿弥陀仏やニ菩薩が迎えに来て浄土に連れて行く)されるようです。
極楽浄土(聖書では、天の御国)から来られ、魂を極楽浄土へ連れて行く三尊です。
神道では、天におられる天御中主神と高皇産霊神と神皇産霊神の三柱がいます。
仏教では、極楽浄土にいる阿弥陀仏と勢至菩薩と観音菩薩の三体がいます。
キリスト教では、天におられる唯一まことの天地創造の神を、父なる神、子なる神、聖霊の三位一体の神と言います。三つの神格を持たれる三位格の神ですが、三つにしてひとつの神です。
日本の神道も仏教もキリスト教も、根源となるお方は三つの名前を持っています。
神道では三柱。仏教では三体。キリスト教では三位一体。何か共通しますね。
私には、神道の天御中主神、仏教の阿弥陀仏は、聖書の「父なる神」を現わし、神道の神皇産霊神、仏教の観音菩薩は、聖書の「子なる神」を現わし、神道の高皇産霊神、仏教の勢至菩薩は、聖書の「聖霊なる神」を現わしているように思えます。
神は日本人に、神道を通しても、仏教を通しても、キリスト教を通しても、根源なる全能の神と、人として来られた慈悲深い神のひとり子と、啓示の光を照らし真理の御霊として働かれる聖霊を知らせておられるのではないのでしょうか。
一神教の人々から、日本は多神教と見られても仕方ないですが、実は、一神教のほうが、まことの神を正しく知ることができないのかも知れません。
聖書の神は、おひとりの神であって、一神教のように思われますが、実は、御父、御子、御霊の三位一体の神なのです。
一神教の考え方では、聖書の神の全容を捉えることができないのです。聖書の民であるユダヤ人の信じるユダヤ教では、神にひとり子がおられるという事は信じがたいこととなります。それゆえ、神の子であると証言したナザレのイエスを、聖なる神を汚す者として処刑したのです。
神が神々を生むという日本神話を持つ日本人には、理解しがたいことではありません。一神教ではないからこそ、受け入れられるのです。
日本人は、昔から名前を変えた三位一体の生けるまことの神とともに暮らしてきたのではないでしょうか。
宗教は知らないけれども、いのちの源なる大いなるものを恐れ、自然の中に神を感じ、すべてのものにいのちを認め、いのちの実体(生かす神)と和合してすべてのいのちと調和を保ち、愛でながら暮らしたのでしょう。
目に見えないけれども確かに存在しておられる方に愛された記憶を持つ民です。それゆえ、心に神の律法がしるされているのかも知れません。聖書を持たなくても、心に神とともに生きた記憶が刻まれているのです。
仏教が馴染んで来た阿弥陀仏が、天のまことの神であることを知るならば、聖書の神、父・子・御霊は知らない外国の神だとは思わないことでしょう。彼らは、イエス・キリストという名前では知りませんでしたが、観音菩薩として神の憐れみを知っているのです。
神道がかしずいてきた天御中主神が、聖書の天地万物の創造主であることを知るならば、聖書の神、父・子・御霊は遠い外国の神だとは思わないことでしょう。彼らは、イエス・キリストの御霊は知りませんが、高皇産霊神の名前で、神の霊を崇めて来たではありませんか。
神道も仏教も、日本人の精神を守り育ててきました。宗教ではないので、日本人の精神は根こそぎ滅ぼされなかったのです。
愛された記憶のある日本人が愛を失ったとき、すなわち神とともに歩む生き方を否定され、またむなしい世のものを神の代わりにあてがわれたとき、日本人は絶望し、生きる望みを失う人々が増えたのかも知れません。
無宗教であっても、信仰心は無となっていません。
神は、今年元旦に大和魂にかけられていた呪縛を解かれました。真に大切なものを隠し嘘偽りを蔓延させられて傷ついた大和魂が癒されて日本人の魂が回復されるならば、いのちの働きへと導かれることでしょう。
神に愛された記憶を持つ日本人に任される働きです。