「あなたの神(あなたを造られた神)、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。
主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」(ゼパニヤ3:17)
すべての人は、ひとりの神によって造られ、神によって生かされています。それを信じることができなくても、事実そうなのです。
全知全能の神は、ひとりひとりを造られ、ひとりひとりのことを御存じです。それゆえ、神のみもとには、ひとりひとりの人生の記録の書があります。本人が忘れているような事もすべて記録されています。
全知全能の神は天の神であられ、天地万物を造られた創造主であられ、すべてのものを保たれる方、また、魂の値打ちをはかり、それぞれの魂が帰る場所を判決される裁き主なのです。
ユダヤ教徒だけの神ではありません。キリスト教徒だけの神ではありません。ユダヤ教徒でない人にとっても、キリスト教徒でない人にとっても、ただおひとりの神です。
ユダヤ教徒でなくても、キリスト教徒でなくても、聖書を知らない人にとっても、聖書を信じない人にとっても、唯一の創造主なのです。
神道の人も、仏教の人も、無宗教の人も、実は、このおひとりの天の神によって、母の胎内にかたち造られ、生命を与えられて、生きているのです。
アジア人も、欧米人も、アフリカ人も国や民族関係なく、すべての人間はこのお方によって造られ、すべてのことがこのおひとりの神から発し、神によって成り、神に至るからです。
わざわいを許されるのも神です。また、救われるのも神です。人間は、順調な時に高ぶりやすい生き物です。不調なときに、何かを求めます。助けてくれるもの、救ってくれるものを自分の外に求めます。自分と自分を取り巻く環境の中に手立てがないとわかったときに、藁をもすがる思いで、目に見えないものにすがります。
すがっている対象の正体を知らないで、「神様。仏様。」と心で叫びます。
「(預言者)エレミヤが監視の庭に閉じ込められているとき、エレミヤに次のような主のことばがあった。
『行って、クシュ人(エチオピア人)エベデ・メレクに話して言え。「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。見よ。わたしはこの町にわたしのことばを実現する。幸いのためではなく、わざわいのためだ。それらは、その日、あなたの前で起こる。
しかし、その日、わたし(神)はあなたを救い出す。―主の御告げ。―あなたはあなたが恐れている者たちの手に渡されることはない。
わたしは必ずあなたを助け出す。あなたは剣に倒れず、あなたのいのちはあなたの分捕り物としてあなたのものとなる。それは、あなたがわたし(イスラエルの神)に信頼したからだ。―主の御告げ。―」』」(エレミヤ39:15-18)
南ユダ王国のゼデキヤ王は、悪いことを預言するのを憎む人々が神の預言者エレミヤを泥の穴に綱で降ろすことを許しました。
そこで王宮にいた宦官エベデ・メレクは、エレミヤが穴に入れられたことを聞き、王に告げて言いました。
「王様。あの人たちが預言者エレミヤにしたことは、みな悪いことばかりです。彼らはあの方(エレミヤ)を穴に投げ込みました。もう町にはパンがないので、あの方は、下で、飢え死にするでしょう。」(エレミヤ38:9)
「すると、王は、クシュ人エベデ・メレクに命じて言った。
『あなたはここから三十人を連れて行き、預言者エレミヤを、まだ死なないうちに、その穴から引き上げなさい。』」(エレミヤ38:10)
こうして、エレミヤは穴から引き上げられたのでした。
神は、クシュ人のエベデ・メレクに、ユダヤ人の預言者エレミヤを通して語られました。
「わたしは必ずあなた(エベデ・メレク)を助け出す。」(エレミヤ39:18)
そして、エベデ・メレクの行なったことをご覧になられたイスラエルの神は、「あなたがわたしに信頼したからだ。」と仰せられました。
神はそのとき、悪いものとなった南ユダ王国を建て直すために、バビロンの王の首長に降伏することを南ユダに命じておられました。
南ユダ王国よりも先に、悪いものとなった北イスラエル王国はアッシリアに捕囚されました。それを見ながら、南ユダ王国もまた、預言者の語る神のことばを信じず、悔い改めて神に立ち返ろうとはしなかったからです。
ユダヤ人たちは、自分たちが悪いものとなったことを認めず、「この町に留まる者は、剣と飢饉と疫病で死ぬが、バビロンに行く者は生きる。この町は、必ず、バビロンの王の軍勢の手に渡される。バビロンの王はこれを攻め取る。」と預言するエレミヤを憎んでいました。
彼らは、神の民であるユダヤ人が敵の手に陥ることはないと高ぶっていました。そして、エレミヤのことを、「この男は、この民のために平安を求めず、かえってわざわいを求めている。」と言って、憎んでいたのです。
しかし、エレミヤの預言は神のことばでした。神のことばを語るエレミヤを憎むユダヤ人たちの中で、クシュ人エベデ・メレクは、エレミヤのいのちを救いました。
神のことばを語るエレミヤを救ったエベデ・メレクは、エレミヤの語る神のことばを信じたのでしょう。
神は仰せられました。「わたしは必ずあなた(エベデ・メレク)を助け出す。あなたはあなたの恐れている者たちの手に渡されることはない。(エレミヤを穴に入れるように王に願ったユダヤ人たちをエベデ・メレクは恐れていました。しかし、神は彼らの手に渡されることはない、と約束されたのです。)それは、あなたがわたしに信頼したからだ。」
神は、神の選民だと高ぶって神にそむくユダヤ人たちに「この町に留まる者は死に、バビロンに降伏すれば生き延びる。」と預言していたエレミヤを、バビロンの王の保護を受けさせて、エルサレムに留まらせました。そして、廃墟となったエルサレムの人々を励ましたのでした。クシュ人エベデ・メレクもエルサレムに留まっていたのでしょう。
神に信頼する者、神のことばにへりくだる者は、ユダヤ人でなくても、キリスト者でなくても、創造主であられるいのちの神が守られます。
ユダヤ民族に、「わたしの民」と仰せられた全能の神、主は、すべてのものを造られた神だからです。
御自分の民(ユダヤ人)であっても、神に信頼しない者は厳しく罰せられます。また、御自分の民の同胞でなくても、神に信頼する者を神は喜ばれ、神はその者を祝福されるのです。
神にとって、割礼のある者かそうでないのか、ユダヤ人かそうでないのか、キリストを主とする者かそうでないのかは、関係ありません。
神のことばにへりくだる者、神の御霊に逆らわない者を喜ばれます。
神の御霊に逆らわない者は、霊に偽りのない人です。自分の心に素直な人です。魂の思いに敏感な人です。
その人は、自分自身を受け入れ、すべてを感謝する心の明るい人です。
神は、ひとりひとりに得意とするもの、心が喜びに満たされてわくわくするような楽しいと感じるものを造っておられます。
心の素直な人は、無理しません。自分にないものを追い求めません。自分のうちにあるものを慈しみ、また自分の持っているものを喜び楽しんで生きている人だと思います。
立ち止まって、自分を見つめると、子どものころ好きだったこと、わくわくしたこと、ひとりでも夢中になって楽しんだことを思い出すかもしれません。
それが、神から与えられている能力かもしれません。神は、与えたもの以外のことを要求される方ではありません。
神に与えられた能力を生かすとき、楽しみで満たされます。苦労があっても苦痛ではありません。自分の心に素直になってみると、実は自分に偽り、自分で自分を縛って苦しめ、無理して心を傷つけていることに気づくでしょう。
余暇でいいのです。少しの時間でも自分の本当に望むことのために使うならば、だんだんと解放されて、自分の素直な心が顔を出してくるでしょう。
そして、自分が好きになるのです。それは、素直な自分を認めてあげることができるからです。その時、まことの神を知らない人でも、神の御霊の導きに魂が反応するでしょう。
神に造られた者だからです。自分のありのままを受け入れるとき、造ってくださった神に感謝しているのです。感謝する者の心には喜びがあり、自分への愛があり赦しがあります。
そのような人とともに神の霊はおられるような気がします。何かに守られているような気がしているのではないでしょうか。あるとき、そのあたたかいものが自分を愛して造ってくださった神であることを知るのでしょう。