ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

初めから救いにお選びになった

 

 「不法の人(反キリスト)の到来は、サタン(現実に存在している霊的存在の悪魔)の働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。(神のことばや命令は、人に永遠のいのちを得させるための恵みなのです。しかし、それを信じない者や受け入れない者は、自ら永遠のいのちを拒んでいるのです。)

 それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。(神のことばに逆らう者には、神はあえて悪魔の言葉を信じることを許されます。彼らは、神のことばよりも、神のことばを欺く悪魔の言葉を愛したからです。)

 それは、真理(神のことば)を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。

 しかし、あなたがた(新生し〈御霊によって新しく生まれ〉、御霊によって新しく造り変えられる神の子どもたち)のことについては、私たち(使徒たち)はいつでも神に感謝しなければなりません。(神のことばのうちに留まるあなたがたは)主に愛されている兄弟たち。

 神は、御霊による聖めと、真理(神のことば「イスラエルを祝福する者は神に祝福され、イスラエルを呪う者は神に呪われる。」を守る者に伴うとこしえの祝福)による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになったからです。(自分で判断するのではなく、自分でわからなくても、神のことばに信仰を持ち神のことばのうちに留まる者、すなわち、神の契約の民イスラエルに敵対せず彼らの祝福を願う人々や真理の御霊を受けて肉を捨てる火のバプテスマを受ける人々〈人間的な思いや自分の判断を頼みとせず、神のことばが正しいとして、神のことばを守る者)は、神が救いに選んでおられます。)

 ですから神は、私たちの福音(パウロたちが広めたキリストの福音)によってあなたがた(御霊による新しい創造の神の子どもたち)を召し、私たちの主イエス・キリストの栄光を得させてくださったのです。」(テサロニケ第ニ2:9-14)

 

 人間は、自分でイエス・キリストを信じた、と思うかも知れませんが、実は、真理を信じる信仰は、真理(真理の御霊)から出たものです。人から出たものではありません。

 

 真理を思う心をお与えになられたのも、神です。神は、ひとりひとりの魂の値打ちを御覧になっておられます。「信じます。」と告白してそのあとで去って行く人々を、神はご存じです。

 

 不法の人の役割を担う人は、悪魔を愛し、悪魔に従う人です。彼の中には、神への愛はありません。真理を愛する愛はないのです。

 

 その悪魔の子が、人間にはかなわない大きなしるしや奇跡、不思議な力を現わすならば、初めから神への愛のない人々は、彼に従います。

 彼らは赦しや愛や平和よりも、欺きや悪の楽しみやスリル満点な刺激を求めているのです。

 

 彼らは、救われるために真理への愛を受け入れません。自分の思考で善悪を決めます。自分の納得できないことには、神に真っ向から歯向かい、神を責めます。彼らのうちには神への信仰ではなく、自分の理屈が座を占めているのです。

 

 神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送りこまれます。それが、彼らが望む彼らの本当の姿だからです。彼らは信仰よりも、自分の義を主張するのです。彼らの本心は、神の義の中に留まることを望んでいなかったということです。

 

 神はすべてを御存じです。それゆえ、真理(神のことば)を信じないで、悪を喜んでいたすべての者を、彼らの望むとおりに、彼らの欲するまま真理から離れる出来事を通されるのです。

 

 しかし、イエスの弟子たちの語るキリストの福音を聞いて信じ、御霊による聖めを受けて、神のことばに信頼する人々は、神が守られます。

 不法の者たちの惑わす力や、偽りの力、悪の欺きが横行しても、それらの悪から守られます。神のことばに信頼する彼らのうちには、御霊の聖めと真理(神のことば)への信仰があり、神は、彼らを救いにお選びになっておられるからです。

 

 神は、救いにお選びになった人々に、イエスの弟子たちの語るキリストの福音を聞く耳を与え、神が遣わされた救世主イエス・キリストの栄光(死んでも死者の中から甦る復活のからだと永遠のいのちのキリストの栄光、すなわち、イエスを信じる人々は、神の子羊イエス・キリストと同じ栄光)を得させてくださるのです。

 

 神のことばに留まる人々、すなわち、御父に聞き従う神の子どもたちは、御父に愛され、信仰の恵みによって永遠の慰めとすばらしい望み(永遠のいのちと天の御国を相続する神の子どもとされる希望)とを与えられるのです。

 

 「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」(テサロニケ第一5:9)